大倉幕府跡 撮影/西股 総生

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

和田義盛が別当になった「侍所」とは?

 歴史の教科書で鎌倉幕府のページを開くと、拍子抜けするほどシンプルな組織図が載っています。将軍の下に「侍所」「公文所(政所)」「問注所」という、三つの機関があるだけ、というものです。

 あるいは、評定衆や引付衆、出先機関としての京都守護(のちに六波羅探題)などが記されているかもしれませんが、評定衆や引付衆は訴訟業務が増えてきたので、審理専門のグループを設けたもの。幕府が発足した当初からあった部局は、やはり「侍所」「公文所」「問注所」だけです。

 こんな簡単な組織で、政府としてやってゆけるの? と心配になってしまう人もいるかもしれません。では、これらの部局は、どのような業務を分担していたのでしょう。

 まず、「侍所(さむらいどころ)」は、1180年(治承4)の10月に頼朝が鎌倉入りした頃からあったらしいので、いちばん最初にできた部局ということになります。ものの本によっては、軍事・警察業務を統括する役所、みたいな説明が載っていますが、そんなご大層な機関ではありません。

「侍所」というのは、もともとは偉い人たちを警護する侍たちの詰め所のことです。関東の武士たちが頼朝に従うようになると、彼らは交替で頼朝の側に仕えて、警護に当たったり、いろいろな用務をこなすようになります。その詰所が「侍所」だから、いちばん最初にできた部局ということになるのです。

 ドラマの中では、頼朝が和田義盛を「侍所の別当」に任ずる、というエピソードが描かれていました。これは記録に残された史実ですが、要するに、いろいろな武士たちが集まってくるから、彼らが当直につくためのシフトが必要になる、その調整主任をやってくれ、みたいな話なのです。

 とはいえ、多くの武士たちが頼朝に従うようになって、大所帯になってくると、侍所の業務も増えてゆきます。戦いのために武士たちを動員するときの差配なんかも、侍所の仕事になったはずです。その意味では、幕府軍務局みたいなものといってよいかもしれませんが、軍事・警察業務を統括するというほどの機関ではありません。

菊池容斎『前賢故実』より和田義盛

 次に「公文所(くもんじょ)」。これは文字通り、公文書を発行する部局です。頼朝が武士たちの所領を保障したり、新しい所領を与えたりするときの文書を作成・管理するのが業務です。

 教科書には、「公文所」の設置は1184年(元暦元)と書いてあることが多いのですが、この説明は問題があります。というのも、根拠になっている記録には、元暦元年の10月6日に新しい公文所の建物の開所式を行った、という意味のことが書いてあるからです。

 つまり、「公文所」としての業務自体は、それ以前から行われていたのです。たぶん頼朝の御所の一角を使っていたのでしょう。ところが、業務量が増えてスタッフも増員して部屋が手狭になったから、専用の新庁舎を建てたわけです。(つづく)

[新刊紹介]
 西股総生著・TEAMナワバリング編『オレたちの鎌倉殿』3月25日発売(主婦と生活社1400円)!
 鎌倉幕府の成立をわかりやすく説明した本が世の中にあふれてますが、「楽しく読める」ことにかけては、この本が最強です。イラストやマンガを多用しながら、わかりやすく解説。とくに4コママンガが秀逸で、僕も校正中に何度も吹き出してしまいました(笑)。