(英フィナンシャル・タイムズ紙 2025年4月16日付)

「首をはねておしまい」
これは「不思議の国のアリス」に登場する専制君主ならではの気まぐれの権化、ハートの女王が好んで発する宣告だ。
女王は面白いかもしれない。しかし、現実はそうではない。
専制的な支配者は昔からずっと、領地の住民はもとより自分の家族にさえ苦難をもたらしてきた。宮廷はおべっか、えこひいき、腐敗の温床だ。
これこそ、勝手気ままに行われる専制政治の対価だ。
絶対的な権力との闘いの歴史
その全盛期においては、米国民を含む英語を話す諸国民の物語はそのような絶対的な権力を懐柔していく物語だった。
1215年の大憲章(マグナ=カルタ)から17世紀前半の内乱、1649年のチャールズ1世の処刑を経て、ジェームズ2世の追放、1689年の権利章典の発布に至るまで、これは長く苦しい闘いの歴史だ。
チャールズ1世に死刑を宣告した人々はいみじくも、この王は「自分の思い通りに支配するための際限ない、かつ専制的な権力」を手に入れようとする罪を犯したと喝破した。
米国の独立宣言と合衆国憲法の批准により、この専制政治との戦いはさらに進んだ。
南北戦争も同様で、他人に対する絶対的な権力を保持することは何人にも認められないという原則が、この戦争を経て確立された。
米国で今日起きていることは歴史的にも世界的にも重要だ。
なぜなら、気まぐれな権力行使に対する抑制が持ちこたえられるか否かが問われているからだ。
20世紀の大惨事について少しでも知っている人であれば、この問題の重要性に気づかないはずはない。
専制支配を法の支配に置き換えること、そしてその法に基づいて判断する役割を裁判所に、法を制定する役割を議会にそれぞれ付与することは、道徳的な目標と実用的な目標の両方に資する。
そのような国でのみ、国民は専制政治を免れている安心感を得ることができる。
この抑制を無視する政府は独裁政権だ。
評論家のアンドリュー・サリバンが評しているように、「米国で重視されるのは法の権威だ。トランプはむき出しの権力を重視している。米国は理性への信頼の上に成り立っていた。トランプは自分自身の本能しか受け入れない」。
我々は今、米国という共和国それ自体への周到に計画された攻撃を目の当たりにしているのだ。