伝狩野元信『源平合戦図屏風』赤間神社蔵

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

鎌倉殿の時代(11)組織としての鎌倉幕府(前編)https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/69429
鎌倉殿の時代(12)組織としての鎌倉幕府(後編)https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/69431

なぜ〝源平合戦〟と呼ばないのか?

 ドラマの方は、いよいよ〝源平合戦〟がたけなわとなってゆきます。ただ、歴史学では〝源平合戦〟とはいわずに、年号をとって「治承・寿永の内乱」と呼ぶのが普通です。別に、スノブで難しい言い方をしているわけではありません。

 普通、この戦いは頼朝の挙兵から平家滅亡までを指しますが、戦いの中身をよく見ると、〝源平合戦〟とは呼びにくいからです。たとえば、頼朝の佐竹攻めや、木曽義仲との戦いは〝源源合戦〟です。また、頼朝に従った武士たちも、北条氏や三浦氏、千葉氏や上総氏、畠山氏などは系譜からいえば、桓武平氏の末裔です。

 戦いそのものは、治承・養和・寿永・元暦という4つの元号にまたがっています。昔は天変地異や大きな争乱があると、世を鎮めるために元号を変えたので、改元しても戦乱や飢饉が収まらないと、「この元号はパワーが足りない」となって、改元が続くからです。ただ、「治承・養和・寿永・元暦の内乱」では長すぎるので、「治承・寿永の内乱」と呼んでいます。

 この「治承・寿永の内乱」を見てゆくときに、ひとつ頭に入れておいてほしいことがあります。この戦争が、当時の武士たちにとって未体験ゾーンだったことです。武士とは、戦いのプロです。にもかかわらず、戦争が未体験ゾーンとは、どういうことでしょう?

 平安時代の後期に地方に育ってきた武士たちは、都の貴族社会が国家による軍事力の維持管理をやめて、武力を民間にアウトソーシングする政策から生まれてきたものです。国家規模の戦争は滅多にないので、武力が必要になったら、腕に覚えのある地方豪族たちを都度、動員するみたいな考え方です。

 なので、彼らの武力は、自分の所領や利権・資産、あるいは名誉を守るためのものでした。彼らは、一族で束になって動くこともありましたが、一族どうしで土地を取り合って争うこともありました。

 近隣の武士と所領をめぐって争うような戦いなら、本人一人の首を取れば問題は決着します。基本は一族郎党といった家単位で戦闘集団を作りますが、戦いは長引きません。一騎討ち(要するにタイマン勝負)か夜討ちくらいで、カタがつくからです。

 頼朝が挙兵した治承4年は1180年ですから、祖先の源頼義や義家が奥羽で戦った前九年の役(1051~62)・後三年の役(1083~87)からは、すでに百年ほどたっています。直近で起きた合戦といえば、保元・平治の乱ですが、これは数百オーダーの軍勢が短時間の市街戦で決着をつける程度の規模でした。

飛騨守惟久筆「後三年合戦絵詞」南北朝時代・貞和3年(1347)東京国立博物館蔵 出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)

  つまり、治承・寿永の内乱に参加した武士たちは誰一人として、何千・何万という兵力を動員して遠くの敵地に侵攻する長期の戦争など、経験したことがなかったのです。馬をどう乗りこなして弓をどう射るか、みたいなノウハウはバッチリ身についていても、〝軍隊〟を指揮・運用するノウハウなど持ち合わせていません。

 戦略や作戦どころか、戦術すらまともに考えた者はいないのです。ゆえに彼らは、あるときは勢いに任せ、あるときは知恵をしぼりながら、手探りで未体験の戦争に臨んでゆくことになりました。

 いや、一人だけ、当時の地方武士たちとは違う発想のできる人物がいたのですが、そのお話は、いずれ、また・・・。

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