源氏山公園の源頼朝像 写真/西股 総生

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

鎌倉殿の時代(14)上総介広常粛清の背景(前編)https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/69770
鎌倉殿の時代(15)上総介広常粛清の背景(後編)https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/69771
鎌倉殿の時代(16)一ノ谷奇襲戦はなぜ成功したかhttps://jbpress.ismedia.jp/articles/-/69779

義経の戦いと近代戦の共通点

 第1次世界大戦までの近代戦では、前線を突破した攻撃隊は敵の側面から背後に回り込んで、包囲殲滅を図るのが常道でした。この方法が、もっとも効果的に敵を撃滅できる戦い方だったからです。 

 ところが、電撃戦でフランス軍を下したドイツ軍は、まったく違う原理で行動しました。すなわち、前線を突破した機甲部隊は、足の速さを生かしてそのまま敵の後方へ、後方へと入り込んでゆきます。相手方を混乱させ、連絡通信網や指揮命令系統を麻痺させることによって、敵の戦力を崩壊させるのです。このように、敵の後方へとどんどん入り込んでゆく戦術行動を、軍事学では「浸透」と呼びます。

 さて、道のない山の中を進む義経隊は、どうしてもスピードが落ちます。なので、義経隊が平家陣の背後に達したとき、一ノ谷や生田方面での戦いは、すでにたけなわとなっていました。結果として、このタイミングのズレがうまく作用しました。

 一ノ谷の平家軍主力は、海沿いに攻撃を仕掛けてきた土肥実平らの搦手軍と激戦を交えていたからです。その平家軍の背後にやすやすと侵入した義経隊が暴れ回れることで、絶大な「浸透」効果を発揮したのです。平家軍が大混乱に陥るのも、当然でした。常識の斜め目上を行く義経の発想は、実は軍事理論にかなったものだったのです。

兵庫県神戸市須磨区一ノ谷町にある「源平史跡 戦の濱」の石碑 写真/PIXTA

 平家方は、福原の根拠地と多くの武将を失い、幹部はかろうじて海上に逃れました。福原はもともと港湾都市ですから、いざとなったら退避できるように、港には安徳天皇一行を乗せる御座船が待機していたはずです。

 この戦いは、たしかに鎌倉方の大勝利ではありましたが、大きな問題も残りました。

 鎌倉軍は「平家一門を討ち滅ぼす」と息巻いていますが、戦争に勝てるのであれば、別に平家一門を皆殺しにする必要はありません。政戦略レベルで考えた場合、むしろ重要なのは、平家に連れ去られた安徳天皇と三種の神器を奪還することです。

安徳天皇の肖像画

 安徳天皇と三種の神器を奪還すれば、鎌倉の「東国自治政府」は朝廷を軍事的に守護する者として認められます。それはつまり、全国の武力を統括する軍事政権となることを意味します。この目的が達成できるのであれば、平家一門を皆殺しにできなくても、かまわないのです。

 鎌倉軍が、東西から福原を挟み撃ちにするという作戦を立てたのも、安徳天皇と三種の神器を奪還するためでした。ところが、義経の奇襲が浸透効果を発揮して、平家軍の防衛態勢を早々に崩壊させてしまったために、平家の幹部たちは安徳天皇と三種の神器を擁して、海上に逃れてしまいました。

 鎌倉方は自前の船団を持っていないので、敵が海上に逃げると、手出しができなくなります。つまり、義経の天才的戦術は大勝利をもたらした一方で、鎌倉方の目的達成を台無しにしてしまったのです。

 このように考えてくると、一ノ谷の勝利によって、頼朝がかえって義経に不信感を抱いたことがわかります。また、こののち戦いを続けてゆく中で、義経と梶原景時との対立が次第に激しくなってゆきます。頼朝の懐刀であった景時は、義経が天才戦術家であることを認める一方で、「何という事をしてくれたんだ」という思いも抱いたはずなのです。

 次回は、このつづき、屋島の合戦について解説しましょう。

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