源氏山公園にある源頼朝像 写真/西股 総生

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

鎌倉殿の時代(14)上総介広常粛清の背景(前編)https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/69770

『吾妻鏡』に記されていない広常粛清事件

 東国における荘園・公領からの年貢・税の納入に責任をもて、と命じた「寿永2年10月宣旨」を、頼朝は受けいれました。一見すると、頼朝が朝廷に服従したように思えます。だからこそ朝廷は、頼朝を平家討伐の功績第一と認めたのです。都の貴族たちにとって何より重要なのは、地方からの年貢や税収だったからです。

 でも、これは頼朝と後白河法皇との間でなされた、高度な政治的取引でした。よく考えてみましょう。年貢・税の納入に責任をもち、逆らう者を討てということは、年貢・税の納入さえ保障されれば、現地の実効支配はまかせる、ということでもあります。

 つまり「寿永2年10月宣旨」とは、鎌倉を「東国自治政府」として事実上承認する、という意味だったのです。頼朝は東国を支配したい。法皇や貴族は、地方からの年貢や税収を確保したい。そんな両者の利害が一致したところで成立した、政治的取引でした。

 ただし、こうした路線転換に不満をもつ御家人も、当然いたでしょう。もともと、御家人たちの間には、さまざまな思惑や、立場の違いがあるからです。

 小さな所領しか持っていない者もあれば、大きな所領を持っている者もある。積極的に新しい世の中を創ろうと意気込んでいる者、成りゆきで頼朝軍に加わった者。石橋山で死線をくぐった者と、後から勝ち馬に乗った者。北条時政や三浦義澄、千葉常胤、上総介広常といったオジサン世代と、義時や三浦義村、和田義盛、畠山重忠といった次世代グループとの立場の違いも、ドラマではうまく描かれています。

 それから、広常が仲間に加わった頃や、富士川合戦の頃を思い出してみましょう。オジサン世代が中心となって、皆で頼朝を囲んで、わいわいやっていましたよね。いうなれば、「円卓の武士たち」みたいな感じです。

現在の富士川

 でも、ここ数回のドラマでは、様子が違います。義時や安達盛長、比企能員、梶原景時、大江広元といったメンバーが、いつの間にか頼朝の側近グルーブのようになっていることに、気がつきましたか?

頼朝の知恵袋として幕府を支える大江広元の肖像画

「東国独立革命軍」は、最初は頼朝の個人商店か、仲間内で始めたベンチャーみたいなものでした。でも、大勢の武士たちが集まってきて「革命政府」となり、朝廷から「自治政府」として承認されるようになると、もう「円卓の武士」方式では運営しきれません。最高権力者を、事務方のスタッフや側近グループが取り巻いて、意志決定機関として動かしてゆく必要があります。

 そんな中で御家人たちが、「オレはやっばり独立革命がよかった」とか、「遠くまで遠征に行くのはイヤだ」とか、めいめい勝手なことを言っていたら、組織が立ちゆきません。御家人たちを束ねて同じ方向を向かせるためには、荒療治も必要となります。そこで、最大軍閥の首領である上総介広常を粛清して、権力の集中を図ったのです。

 この事件は、1934年にドイツで起きた「長いナイフの夜」を思い起こさせます。ヒトラーの率いるナチス党は、突撃隊という私兵集団を使って、政敵の攻撃やユダヤ人の排撃を行っていました。ところが、支持者が増えたことで、全国的な政党として合法的(表向きは)に権力を握る方向に進んだヒトラーは、突撃隊が邪魔になりました。そこで、幹部たちを暗殺して突撃隊を粛清してしまったのです。

 鎌倉幕府の成立史には、組織がどんなふうにできて、どんな問題を孕んでゆくか、という普遍的な原理を見て取ることができるのです。

[新刊紹介]
今からでも間に合う大河ドラマの参考書。西股総生著・TEAMナワバリング編『オレたちの鎌倉殿』絶賛発売中(主婦と生活社1400円)!
ふだん歴史の本を読まない人でも、楽しみながら治承・寿永の内乱と鎌倉幕府の成り立ちがわかります。武具や戦い方の基礎知識も、イラストを使ってわかりやすく解説。主要人物も、ドラマのキャラに重ねて読めるようになっています。