壇ノ浦の決戦海面 撮影/西股総生

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

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鎌倉殿の時代(17)時代を突き抜けた義経の戦術眼https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/69780
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5艘・150騎の勢力で強行出撃した義経軍 

 鎌倉軍は、屋島を攻略する必要に迫られました。ここで義経が考え出したのは、屋島を陸路から急襲する、という奇策でした。手持ちの船に乗せられるだけの精鋭部隊を乗せ、紀伊水道を渡って阿波に上陸。陸路を走破して、屋島の背後を衝く作戦です。

 この作戦は、かなりなバクチでした。まず、手元にある船は5艘くらいで、150人も乗せれば精一杯。阿波は平家方の勢力圏ですから、上陸すれば平家方の地元勢力に迎撃される可能性もあります。

 しかも、阿波から屋島に向かうためには、讃岐山脈の険しい峠を越えなくてはなりません。阿波での戦闘や峠越えで手間取れば、義経らの動きは屋島に伝わって、平家軍は備えを固めるでしょう。そうなったら、小勢での攻撃は自殺行為です。 

 以上のリスクを考えて、梶原景時は義経の作戦に猛反対しました。しかし、義経は反対を押し切り、本当に5艘・150騎の兵力で嵐の中を強行出撃したのです。これだけの小勢なら、見つかる確率も減ります。翌朝、阿波に上陸した義経は、近くの平家方武士を電光石火で討ち取ると、屋島に向かいました。

屋島古戦場 写真/アフロ

 ここからは、スピードが全てです。平家方に察知されるより早く、屋島に到達しなくてはなりません。おそらく、へばった者は置き去りにして、動ける馬と兵だけで寝る間も惜しんでひた走ったはずです。

 まる一昼夜の強行軍で険路を走破した末、義経らは屋島の奇襲に成功しました。予想外のタイミングで予想外の場所に出現することによって、対応する余裕を与えなければ、敵の戦力を崩壊させることができる。この、近代軍事学の説く奇襲のセオリーを、義経はみごとに実現してみせたのです。

 このときの義経の兵力はわずか150騎ですから、戦闘そのものの規模や、平家方の人的損失はさほどではありません。けれども、この合戦は重大な局面の転換をもたらしました。

 屋島という作戦基地を失った平家軍は、瀬戸内海の西部まで後退せざるをえなくなったからです。つまり、平家にとって屋島の失陥は、制海権の喪失を意味したのです。これにより、瀬戸内の海上勢力は続々と鎌倉方に味方するようになりました。

 一方、平家方が制海権を失ったことで、補給を受けられるようになった範頼軍は、山陽道の制圧に成功して、九州まで達しました。この結果、平家方は陸上での地盤も失って、兵力や物資の調達ができなくなりました。

 関門海峡の西にある彦島に追い詰められた平家軍は、後がなくなりました。一方の義経は、大船団を率いて決戦を挑みます。こうして、関門海峡の東に広がる壇ノ浦で、最後の戦いがはじまります。

壇ノ浦の古戦場跡 写真/アフロ

 兵力で敵を上回るようになった義経には、もはや奇襲の必要はありません。一ノ谷・屋島と、2発のボディブローを打って、相手の体力を奪った義経は、最後に正面からのストレートを叩き込んで敵を仕留めたのです。

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