屋島古戦場

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

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屋島の地で勢力の回復に努めた平家軍

『アラビアのロレンス』という映画をご覧になったことは、ありますか?

 第1次世界大戦に際してイギリスは、枢軸国であるトルコ帝国の背後を攪乱するため、砂漠の民であるベドウィン族に叛乱を起こさせました。このとき、ベドウィンに軍事顧問として派遣されたイギリス軍将校がトマス・エドワード・ロレンス、つまりアラビアのロレンスです。

 このころ、イギリスの目の上のタンコブとなっていたのが、アカバ港に在泊するトルコの巡洋艦でした。大英帝国の海上補給路に対する重大な脅威となっていたからです。紅海の最奥に位置するアカバ港は、厳重な砲台に守られていて、海上からの攻撃は困難。しかも、背後には広大な砂漠が広がっていて地上部隊も接近不可能、という難攻不落の要衝だったのです。

 ところが、ラクダ隊を率いたロレンスは、横断不可能と思われていた砂漠を苦難の末に突破して、陸路からアカバの攻略に成功したのです。ちなみに、デビッド・リーン監督の『アラビアのロレンス』では、アカバに侵入したラクダ隊の先鋒が、トルコ軍を蹴散らしながら波止場に達するまでを、俯瞰のワンカットで捉えた長回しシーンが圧巻です。

 さて、今回は、ドラマでは少しはしょられてしまった屋島の合戦についてです。屋島は、現在の高松市にあります。

 一ノ谷の合戦に敗れて福原を失った平家軍は、瀬戸内海を渡って屋島に基地を構え、勢力の回復に努めました。対する鎌倉軍は、これに手出しができません。東国から遠征してきた鎌倉軍は、自前の船団をもっていなかったからです。

 平清盛が厳島神社を建てたり、音戸ノ瀬戸を切り開いたりしたことでわかるように、もともと平家一族は瀬戸内海一帯に勢力を蓄えていました。したがって、瀬戸内で船を操る海の武士団の中には、平家の家人となっていた者も多かったのです。これでは、鎌倉方が船を雇おうとしても、応じる者はなかなかいません。

厳島神社にある平清盛の銅像 写真/アフロ

 そこで鎌倉方では、まず治安維持の名目で畿内近国を制圧し、少しずつ海上勢力を味方に引き入れようと試みました。この任に当たったのは、義経と梶原景時です。結果として、畿内近国の平家方が討伐され、都に入ってくる荘園の年貢や公領からの税収が回復したので、院や貴族たちは鎌倉軍を支持するようになりました。

源義経像

 併行して、範頼の率いる主力軍が山陽道を制圧にかかりました。北条義時や和田義盛、土肥実平といった面々が範頼軍に加わっています。瀬戸内海を陸路で北から押さえにかかったわけです。

源範頼像

 ところが、山陽道を進む範頼軍は、深刻な兵粮不足に直面することになりました。せっかく貴族社会の支持をえて「官軍」として戦っている以上、野放図な現地調達=略奪はできません。

 かといって、屋島に平家の水軍が居すわっている以上、上方から兵糧を海上輸送することもできません。鉄道もトラックもない時代のこと、兵糧のような重量物を大量に輸送するには、船を使うしかないのです(つづく)。