源氏山公園にある源頼朝像 撮影/西股総生

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

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兄弟の情・絆は、持ち合わせていなかった?

 平家を討ち滅ぼすという宿願を果たした源頼朝と義経は、直後に決裂してしまいます。なぜ、兄弟は決裂してしまったのでしょうか?

 もともとこの二人は、兄弟とはいえ母が違い、年も離れています。平治の乱で父の義朝が敗死したときには、義経はまだ乳呑み児で、すぐに鞍馬寺に預けられましたし、頼朝は伊豆に流されました。

鞍馬寺 写真=アフロ

 別々の環境で育ち、顔を合わせたこともなかった二人は、われわれがイメージするような「兄弟の情・絆」は、持ち合わせていなかったでしょう。また、頼朝は地方武士たちの社会で、もまれながら政治家として成長しましたが、身寄りのない環境で育った義経は、どうも自己承認欲求が強かったようです。

 そんな義経は、軍事の天才ではありましたが、政治的には無頓着でした。とくに、ドラマでも描かれていた無断任官問題は、鎌倉政権の根幹に関わる重大案件であったにも関わらず、勝利に浮かれていた義経は問題に気がつきませんでした。

 鎌倉殿の権力基盤は、御家人たちとの主従関係です。御家人となった武士たちは、鎌倉殿に忠節を近い、鎌倉殿の命令によって敵と戦います。そして、敵を討ち滅ぼしたなら、敵から奪った所領や財産を、恩賞として鎌倉殿から与えられます。これが、主従関係の基本です。義経が朝廷からもらった「検非違使(けびいし)」のような官位・官職も、戦功に対する恩賞です。

『伴大納言絵詞』に描かれた検非違使

 だとしたら、鎌倉方の武士たちが朝廷から官職をもらうためには、頼朝の推挙をへる、という手続きが必要になります。頼朝の許しも推挙もなく、御家人たちが勝手に朝廷からほうびをもらって、朝廷のために働くことになったから、鎌倉殿と御家人との主従関係が維持できなくなるからです。

 残念ながら義経には、こうした問題を察するだけの政治的感覚がありませんでした。たしかに彼は、天才軍略家でした。平家を滅ぼすことができたのは、義経の策に負うところが大きいのは、間違いありません。

 しかし、天才であるゆえに、彼のすばやく鮮やかな判断には、独断専行の傾向もありました。一ノ谷・屋島・壇ノ浦と三度の大きな合戦で平家を破ったにもかかわらず、安徳天皇と三種の神器を奪還するという政戦略上の目的が達成できなかったのも、義経が軍事的な勝機を優先したからです。

 軍事の天才ではあるが、政治的感覚がにぶくて自己承認欲求が強い。そんな義経は、平家との戦いが終わったいま、危険人物になりかねませんでした。これからは、新しい世の中の仕組みをつくってゆく、政治の季節だからです。

 こうした義経と頼朝との微妙な関係に、たくみにつけ込んだのが後白河法皇です。もともと自前で武力をもたない貴族社会は、武士たちを互いに競わせながら都合よく利用することで、権力を維持してきました。平家、木曽義仲、頼朝、行家、義経といった具合です。

後白河法皇 

 貴族社会のラスボスである後白河からしたら、政治的感覚がにぶくて自己承認欲求の強い義経をちやほやしながら、頼朝との対立に持ってゆくのは造作もないことだったでしょう。ただし、後白河の節操のない対応は、のちに大きなツケとなって返ってくるのですが。

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