近藤長次郎の墓がある皓台寺(長崎市) 写真/フォトライブラリー

(町田 明広:歴史学者)

後世に伝わらなかった近藤の偉大さ

 前回までのシリーズ、「近藤長次郎と薩長同盟―知られざるユニオン号事件の実相とは」の主人公として取り上げた近藤長次郎は、薩摩藩士として、「小松・木戸覚書」(いわゆる薩長同盟)の地ならしを行なった。彼なくして、薩長同盟は締結することが出来なかったことは自明であろう。

 しかし、その実績は坂本龍馬の実績の中に溶け込んでしまい、近藤の希有な偉大さは、ほぼ後世に伝わらなかった。前回シリーズで、近藤の重要性は多くの読者の皆さんに、ご理解いただけたのではなかろうか。

 しかし、近藤は薩長同盟の成立直後に自ら命を絶った事実まで、言及することが出来なかった。今回は、慶応2年(1866)1月23日、長崎において近藤は自刃したが、その経緯や理由について、真相は一体どのようなものであったのか、最新の研究成果から迫ってみたい。

社中からの近藤長次郎の自殺の届け出

近藤長次郎

 近藤の自刃について、これまで定説はどのようなものなのか、最初に確認しておこう。近藤は、長州藩からの資金で密かに外遊(留学)する計画が発覚したため、あるいは勝手に長州藩と新条約を結んで妥協したため、社中の沢村惣之丞らに社中盟約に背いたとして難詰され、その結果として、自刃したとされる。

 この定説がどこまで信用に足るものなのか、検討していこう。最初に、長崎在番の薩摩藩士である野村盛秀の1月23日の日記の記載を確認したい。

今晩八前、土州家前河内愛之助(沢村惣之丞)、多賀松太郎(高松太郎)、管野覺兵衛(菅野覚兵衛)入来、上杉宗次郎へ同盟中不承知之儀有これ之あり、自殺為致候段届申出候間、翌朝、御邸、伊(伊地知貞馨)、汾(汾陽次郎右衛門)其外へ届申出候

 これによると、午前2時前、土佐藩の沢村惣之丞、高松太郎、菅野覚兵衛がやって来て、近藤長次郎が社中の取り決めに背いたたため、自殺させたとの申し出があった。よって、朝になって薩摩藩邸の伊地知貞馨や汾陽次郎右衛門らに届け出たとする。

 確かに、「同盟中不承知之儀」とあることから、社中の中で何らかのトラブルが発生していることは間違いない。