グラバー園のグラバー像 写真/GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート

(町田 明広:歴史学者)

桜島条約と近藤長次郎

 長州藩主毛利敬親から直接依頼を受けた近藤長次郎は、何とかして薩摩藩から名義貸しによる軍艦購入の了解を引き出すことに迫られた。そのため、井上馨と下関で「桜島条約」を起草したのだ。その作成日は不分明であるが、慶応元年(1865)の9月から10月にかけてであろう。

 その主な内容は、旗号は島津家のものを借用、乗組員は社中の士官(高松太郎、菅野覚兵衛、新宮馬之助、黒木小太郎、白峯駿馬、沢村惣之丞)と従来からの召連れの水夫や火焚、長州藩からは士官2人が乗船、船中の賞罰は社中士官が実行、諸経費はすべて長州藩が負担、長州藩の使用に空きがある時は薩摩藩が利用可能というもので、薩摩藩に俄然有利な内容であったのだ。

 近藤はこの桜島条約をユニオン号購入の条件として、薩摩藩を説得するために鹿児島に向かった。そして、小松帯刀の許に8日間ほど滞在しながら、実現のために奔走したのだ。その間に、島津久光への拝謁を遂げている。近藤にとって、久光への謁見は2回目となり、薩長融和に尽力する薩摩藩士・近藤長次郎の面目躍如たる瞬間であった。生粋の薩摩藩士でもそうそうなし得ない、短期間での連続謁見であった。

薩摩藩における桜島条約

 なお、桜島条約は、薩摩藩に有利な内容であったにもかかわらず、藩内は多数の異論で沸騰した。禁門の変などを通して、薩長両藩は不俱戴天の敵であり、まだこの段階では、長州藩との過度な連携に対する拒否感が根強くあった。

 つまり、具体的な薩長連携に向けた雰囲気が、必ずしも藩全体には共有されていなかった。しかも、幕府からは嫌疑の目を向けられており、それに対する警戒心の証でもあったのだ。武器とは違って、軍艦は目立つものであり、薩摩藩も慎重にならざるを得なかった。

 そこを突破した小松帯刀の政治手腕にあらためて着目すべきである。確かに、近藤の活躍もさることながら、小松の存在があって初めてユニオン号購入も前進できたことは間違いない。当然ながら、小松の決定を支持した久光の存在も、忘れてはならない。