毛利敬親

(町田 明広:歴史学者)

薩摩藩の名義貸しによる武器の購入

 禁門の変(元治元年7月、1864)によって朝敵となった長州藩は、軍艦・武器の購入が難しくなった。そこで、木戸孝允が中心となり、軍需品が購入できる見込みがない閉塞した現状を打開するため、井上馨・伊藤博文を太宰府の薩摩屋敷に派遣した。そこで、小松帯刀が長崎にいることを聞き及び、現地に向かった。

左から、井上馨、伊藤博文

 慶応元年(1865)7月21日、井上・伊藤は小松との会見を実現した。偶然とは言え、薩摩藩の筆頭家老であり久光の唯一の名代的存在である小松の長崎滞在は、井上らにとってまさに驚くべき僥倖であったのだ。

 井上らが武器購入に関連し、小松に名義借りを懇請したところ、あっけないほど都合が良く、小松は快諾した。そのため、早速伊藤が直接、イギリス商人グラバーと交渉して、武器(銃)はほぼ残らず入手することが叶ったのだ。軍艦についても、意外にも小松の同意を簡単に獲得できた。

 ちなみに、今まで亀山社中と言われてきた坂本龍馬以外の土佐脱藩浪士グループは、「薩摩藩士」を名乗ることを許されて活動する伊藤・井上の身元保証を請け負うような援助をしている程度であった。実際の武器購入交渉は、主として伊藤が直接グラバーと行なっている。なお、社中の主たる役割は、武器の長州藩への運搬であった。

薩長融和のスタート

 ところで、伊藤博文は小松帯刀との会見の内容について、薩摩藩は藩是を「開国勤王」に転換しており、開国を唱えながらも、幕府を扶助する会津藩とは絶交するつもりであるようだと、木戸孝允に伝えている。伊藤は、完全に薩摩藩を信用すべきかについては、一定の留保をしつつ、薩摩藩の藩是を国家に有益であると極めて高い評価をしているのだ。

小松帯刀

 伊藤は続けて、薩摩藩の目的は、あくまでも自藩の海軍興隆による武備充実であると伝え、極めて優れた人物と小松を非常に高く評価すると付言した。このように、7月21日の小松と井上・伊藤会談は、現実的な薩長融和に向けたスタートとして位置付けることが可能なのだ。

 さらに、井上馨は小松に同道して鹿児島まで行き、軍艦購入の周旋を行なっている。伊藤は長崎に残り、銃の不足分の調達などに尽力し、井上が長崎に戻り次第、薩摩藩の軍艦に銃を積み込んで帰藩する段取りであった。