龍馬の生まれたまち記念館、右から、近藤長次郎、坂本龍馬、坂本乙女の像 写真/フォトライブラリー

(町田 明広:歴史学者)

高杉晋作・伊藤博文の近藤長次郎への対応

 慶応元年(1865)11月8日頃、ユニオン号で近藤長次郎は下関に到着し、高杉晋作と伊藤博文が出迎えた。高杉は木戸孝允に近藤の到着を知らせ、至急の来関を求め、難しい場合は木戸の代わりに海軍局の中島四郎らを派遣することを要請したのだ。

高杉晋作

 伊藤も木戸に書簡を発し、近藤は長崎在番の薩摩藩士が俗論を吐き続けたため、ユニオン号の購入には大変に苦労した。しかも、英国留学を志していたが、長州藩のため2、3ヶ月ほど出発が遅れてしまった。木戸が近藤を疎かにするとは思っていないが、何とか藩政府から御礼をして欲しいと開陳した。

 具体的には、伊藤は100から200両くらいを近藤に渡してもよいのではないかとまで要請し、近藤への最大限の気遣いを示した。また、伊藤は薩摩藩の実情を直接、近藤から聞いて欲しいと述べ、木戸本人と井上馨の来関も要求した。高杉と伊藤はこの状況に対処できないと判断し、また、近藤の一筋縄ではいかない尽力に報いる必要を痛感していたのだ。

 なお、近藤自身も木戸に対して、井上の即刻の来関を強く要請する書簡を発した。しかし、その書簡を回覧した井上は、近藤が実直すぎるため、親しい人間でないと交渉がうまくいかないと述べ、12日には下関に到着したいとの意向を木戸に伝えている。