家老桂久武の近藤評価

ところで、たまたま京都にいた薩摩藩家老の桂久武は2月10日の日記に以下を記載している。桂の驚嘆振りが伝わってくる、生々しい記載である。
此日西郷氏より書状到来、上杉宗次郎(近藤長次郎)自刃一条小松家抱え錦戸広樹(陸奥宗光)より野村宗七(盛秀)より之書状致持参候由ニて、小松家より被相廻候とて到来、誠ニ遺憾之次第也
これによると、西郷隆盛から書簡が届き、近藤長次郎が自刃した件について、小松帯刀の家臣となっている陸奥宗光が野村盛秀の書簡を持参した。その書簡が小松から回覧されているとして同封されてきたが、誠に遺憾の次第であると記述している。
近藤の死の一報が、在京薩摩藩の要職の間で回覧されており、しかも、桂がその死を大いに悼んでいる事実は極めて重い。桂は翌日に「四ツ前より小松家江へ参、上杉一件委敷承候」と、小松を訪ねて詳細を確認しており、この事実も見過ごせない。
近藤がいかに薩摩藩にとって、かけがえのない存在であったかが分かるのだ。薩摩藩の黒幕説は、まったく根も葉もないことと言わざるを得ない。
近藤自刃の歴史的意義

この通り、近藤ほどの人物に自刃を迫る確かな事由が見当たらず、このこと自体が極めて不自然である。推測の域を出ないが、社中メンバーとの他愛もないいざこざから、突発的にこのような事態に至った可能性が高いのではないか。社中メンバーには、同格でありながら、長州藩主や島津久光に謁見するなど、1人突出した近藤に対して、日頃から妬みや不満があった可能性は否定できないのではなかろうか。
なお、「野村盛秀日記」には、「上杉旅舎自殺いたし候小曽根方へ差越、前河内(沢村惣之丞)と会取、猶又、始終を聞、ガラバ方にて、伊東春輔(博文)と面会、上杉か次第ヲ話ス」(1月24日条)と自殺翌日の記載がある。これによると、沢村と何らかのトラブルがあった可能性が高く、また、グラバーと伊藤は真相を聞いていると考える。
後日談であるが、グラバーと伊藤両者ともに留学関連のいざこざであると語っており、近藤1人が留学することに対し、嫉妬に端を発した事件の可能性も残され、今後のさらなる究明が待たれる。
いずれにしろ、薩長融和に尽力し続けた近藤という逸材を喪失するという、痛恨の事態に薩長は直面したのだ。近藤が存命であれば、明治維新史に周知の事績以上の足跡を残し、もしかしたら、明治の廟堂で伊藤博文や井上馨と政治を主導していたかも知れないと思いをはせるのは、筆者だけであろうか。