(城郭・戦国史研究家:西股 総生)
ドラマ後半は「13人」のサバイバル
今回は、いつもとは少し趣向を変えて、『鎌倉殿の13人』というドラマのタイトルについて考えてみましょう。
筆者はこのドラマで、「中世軍事考証」を担当しています。大河に関わるのは『真田丸』に続いて2度目ですが、主に合戦や武具について専門的見地からアドバイスする役目です。
残念ながら、筆者は三谷幸喜さんと直接お打ち合わせをしたことはありません。また、制作スタッフさんと打ち合わせする場合も、あまり詮索めいたことは聞かないようにしています。考証の仕事がしにくくなってしまうからです。なので、『鎌倉殿の13人』というタイトルに込められた脚本家や制作側の真意を語る立場にはありませんし、仮に知っていたとしても、ウカウカと書くわけにはいかないでしょう。
なので、あくまでも考証という立場でドラマ作りに関わりつつも、一人の歴史家として、また一人の大河ファンとして感じてきたこととして、お話しします。
ドラマの中で「13人」が揃ったのは、ほんの一瞬。にもかかわらず、ドラマ全体のタイトルを『鎌倉殿の13人』とするのはいかがなものか? そう感じた方も、いるのではないでしょうか。ここで考えてほしいのは、主人公が北条義時だということです。
最初の頃の義時は、成りゆきで挙兵騒ぎに巻き込まれる、ちょっと頼りない若者でした。ドラマの前半では、むしろ頼朝が主役のようにさえ思えたほどです。
その頼朝が死んだのが、第26回。ドラマは全部で48回ですから、ちょうど中間点あたりになるわけです。実は、『鎌倉殿』の台本はこの回を境として、表紙のデザインが変わっています。物語としても、頼朝の死が明確なターニングポイントとして意識されていたように感じます。
つまり、ドラマの前半は「13人」が登場するまでの物語。そして、幕府の成立に「巻き込まれた」青年=義時が奔走して、宿老達の意見を調整し、ラストピースとして自分をはめ込むことで、「13人」が成立しました。
ところが、まず梶原景時が滅亡し、中原親能・三浦義澄・安達盛長が次々と脱落します。その結果、北条vs.比企という図式が浮かび上がり、三浦・和田らが北条方についたことにより、比企が敗亡。さらに、時政が畠山重忠の討滅に動いたことから、今度は時政vs.義時という親子対決が勃発します。
おわかりでしょうか。ドラマの後半部分は、「13人」のサバイバルなのです。
そして、鎌倉幕府成立の物語はまた、壮大なファミリーの物語でもあります。だとするなら、義時が自らを「13人」のラストピースとして自分をはめ込んだときから、時政との親子対決は宿命づけられていたのかもしれません。
「13人」から文官の4人を除くと、武士は9人。そのうち、梶原景時・三浦義澄・安達盛長・比企能員がすでに脱落し、足立遠元も鎌倉を去りました。時政vs.義時の親子対立が決着すれば、残っているのは和田義盛・八田知家の2人だけとなります。
放送回数からいえばドラマは第4コーナーに差しかかっています。「13人」のサバイバルも、いよいよ最終局面。目が離せなくなります。
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