(城郭・戦国史研究家:西股 総生)
上総介広常は上総一国の最高権力者
歴史ファンの中には、自分が住んでいる土地にちなんで、SNS上で「西股武蔵守」みたいに名乗る人、ときどきいますよね? まあ、微笑ましい名乗りといえますが、やってしまうと恥ずかしいのが「上総守」と「上野守」です。
なぜなら上総と上野は、「親王任国(しんのうにんごく)」といって、皇族の財政基盤として指定されている国だからです。当然、一般人は守になれません。それゆえ、上総介広常は上総一国の最高権力者だったのです。
実は、広常は正しくは「上総介」ではなく「上総権介(ごんのすけ)」でした。「権(ごん)」が付く官名は「権官(ごんかん)」といって、もともとは正規の職員だけでは業務をこなせないような場合の、臨時の増員措置でした。「臨時部長補佐」みたいな感じです。ところが、平安時代後期になると、貴族たちのハク付けのために「権官」が濫発されるようになります。
一方で、国司がいちいち現地に赴任しなくなって、目代が派遣されるようになります。そんな時代に、上総国の現地を仕切ることで「上総権介」に任じられていたのが、広常だったわけです。なので、市原か木更津あたりにお住まいの方が、SNS上で名乗るのなら「上総権介何某」とするのがよいでしょう(笑)。
さて、『吾妻鏡』には、和田義盛は上総介への任官を希望したものの、政子に説得されてあきらめた、と書かれています。三浦氏や和田氏の一族は、もともと房総と人的交流が盛んでした。三浦義村の弟は胤義ですが、「胤」は千葉氏一族が代々用いてきた字です。三浦・和田一族の中には「胤」の字が付く者が少なくないのですが、これも千葉氏との婚姻関係によるものです。
また、和田義盛は上総に多く所領を持っていました。おそらく、広常から没収された所領などが、恩賞として与えられたためでしょう。いまや、鎌倉で屈指の有力御家人となった義盛は、かつての広常のように「上総介」を名乗りたいと思ったわけです。
でも、鎌倉幕府ができて以来、国司に推挙されたのは源氏の一門だけでした。左衛門尉や右兵衛左といった武官は、衛門府や兵衛府がすでに有名無実化していたので、ハク付けの官名にすぎません。でも国司は、その国の税収を取りまとめて都に送る利権ポストです。ゆえに朝廷は、貴族身分の者にしか国司のポストを与えなかったのからです。
けれども、頼家や実朝が将軍となったことで、北条家は将軍の外戚となって家格がアップしました。そこで、国司に任官できるようになったのです。教養のない義盛には、このあたりの原理がピンときていなかったようです。北条が遠江守や相模守になるのなら、オレにも上総介をよこせ、という感覚だったのでしょう。
結局、義盛は政子に理を説かれて引き下がりました。しかし、「北条ばかりがいい思いをしている」という、モヤモヤを感じる御家人も多かったようです。一方の義時は、和田義盛に警戒感を抱きました。なにせ、「13人」から文官4人を除いた御家人9人のうち、生き残っていたのは北条義時・和田義盛・八田知家の3人だけになっていたのですから。
しかも、『吾妻鏡』からは義盛が実朝に非常に信頼されていた様子が読みとれます。こうして、義時は次第に「政敵」として、和田義盛を警戒するようになっていったのです。
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