(城郭・戦国史研究家:西股 総生)
畠山の乱と時政失脚とは一連のできごと
鎌倉幕府創建の立役者でありながら、とうとう息子の義時によって鎌倉を逐われた北条時政。今回は、時政が失脚に至った背景を考えてみましょう。
二俣川で畠山重忠が討たれたのが、元久2年(1205)6月22日。時政が、義時・政子によって失脚させられたのが7月19日。二つの事件は、わずか一月ほどの間に起きているのです。畠山の乱と時政失脚とは一連のできごと、と考えるのが自然でしょう。
『吾妻鏡』によれば、時政は後妻である牧の方(ドラマではりく)の讒言によって畠山討伐を決め、さらに牧の方に唆されて平賀朝雅を鎌倉殿に立てようと画策したことになっています。『鎌倉殿の13人』でも宮沢りえさんが、まるでシェイクスピア劇のように牧の方(りく)を熱演していました。
ただ、『吾妻鏡』の伝えるこの筋書を、筆者は鵜呑みにできません。この筋書は「継母(牧の方)-継子(義時・政子)」という、とてもわかりやすい図式による説明だからです。「わかりやすい」は、「教養のない当時の武士でも飲みこみやすい」と言い換えてもよいでしょう。
ご存じのように、執権北条氏の治世下で編まれた『吾妻鏡』は、北条氏の事績を正当化する傾向があります。とくに、義時の行動を正当化することに意を用いているようです。つまり、「重忠の乱も時政の失脚も牧の方が悪い」と主張しているように読めるのです。本当のところはどうなのでしょう?
以下は、筆者の推測です。時政と重忠の間に何らかの対立が生じ、重忠は「ここで執権時政と衝突するのは得策ではない」と踏んで、いったんは不満を飲みこんだ。ところが時政は、逆に重忠が謀略を企んでいるいるのではないか、と疑心暗鬼にかられた。自分が謀略によって次々と政敵を葬ってきたゆえに、対立した相手も自分を陥れようとしている、との思いにとらわれた・・・。
この事件の真相は、いくら史料を分析しても、正確には解明できないでしょう。いろいろな思惑が複雑に交錯する中で、当事者たちの予想を超えた方向に事態が動く・・・というのは、実社会ではよくあることだからです。
それに、時政はもともと伊豆の弱小武士でした。「政治」や「権力」とは縁のないところで、自分の所領をどうにか守って暮らしている、「田舎のおっさん」だったのです。その「田舎のおっさん」が、運命のいたずらによって、あれよあれよという間に権力の座に登り詰めていったのです。権力を持てあますのは、当然だったかもしれません。
一方、息子の義時は、時政とは少々立場が違います。伊豆の片田舎で生まれ育った義時でしたが、鎌倉に入ったときはまだ10代、今なら高校生くらいです。頼朝が義時の人柄や能力を信頼したというより、妻の弟でまだ若い義時は、パシリとして使いやすかったのだと思います。ただ、結果として義時は、頼朝の側近くで「政治」を学びながら、大人になってゆきました。
だとしたら、時政と義時との間に考え方の違いが生まれるのは、必然のなりゆきだったのかもしれません。畠山の乱から時政失脚に至る事件の本質は、実は「世代間の権力闘争」だったように思います。
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