
(勢古 浩爾:評論家、エッセイスト)
※本稿は『おれは老人?』(勢古浩爾著、清流出版)より一部抜粋・加筆したものです。
いつの頃からか、現代のじいさんの典型的な姿は次のように決まってしまった。
すなわち、キャップをかぶり、シャツをズボンの外に垂らし(だらしない、という言葉はもう死語か?)、ジーンズにスニーカーをはいている(夏は半ズボン)。
これに加えて、肩からポシェットかバッグを下げるか、リュックを背負うか(しかしリュック派は意外と少ない)、ボディバッグかウエストバッグを装着すれば、典型的な現代じいさんのでき上がりである。
わたしは定年になる前、地元のじいさんたちがほぼ全員今述べたような恰好をしているのを見て、なんだこれは? と思った。
しかし都心に出ても、旅先でも、あるいはテレビを見ても、このような老人の恰好は、どうやら全国的な傾向であると思われた。
ほとんどのじいさんが、まるでなにかで決められたかのように、キャップを被り、バッグを斜めにかけ、スニーカーを履いていたのだ。
揃いもそろって、みんなおなじ恰好をして恥ずかしくないのか。おれがじじいになったら、あの恰好だけは絶対にしないぞ、と思っていた。
キャップ&スニーカーはいまやわたし自身の姿
そして定年後、10年ほどはその誓いを守っていた。
しかし70歳をすぎて、脳梗塞にかかり、高血圧防止のために歩くことが必須となってしまった。そこでリュックを背負うようになると、自然とあのキャップじいさんの恰好になってしまったのである。
絶対の誓いなど虚しいものだ。
あれほど嫌っていた恰好は、いまや恥ずかしながら、わたし自身の姿である。
そうなってわかったことがある。あの恰好は恥ずかしいもなにもない。ただただ楽なのだ。