鎌倉幕府創建の立役者でありながら、とうとう息子の義時によって鎌倉を逐われた北条時政。今回は、時政が失脚に至った背景を考えてみましょう。 二俣川で畠山重忠が討たれたのが、元久2年(1205)6月22日。時政が、義時・政子によって失脚させられたのが7月19日。二つの事件は、わずか一月ほどの間に起きているのです。畠山の乱と時政失脚とは一連のできごと、と考えるのが自然でしょう。『吾妻鏡』によれば、時政は後妻である牧の方(ドラマではりく)の讒言によって畠山討伐を決め、さらに牧の方に唆されて平賀朝雅を鎌倉殿に立てようと画策したことになっています。『鎌倉殿の13人』でも宮沢りえさんが、まるでシェイクスピア劇
北条時政の失脚は牧の方のせいなのか?父と子・義時との「世代間の権力闘争」
鎌倉殿の時代(38)北条時政の失脚
Premium会員登録のご案内
Premium会員の特典
- プレミアム限定の記事配信
- プレミアム専用記事レイアウト
- 印刷に最適な画面提供