源実朝が横死したのち、鎌倉幕府は新しい鎌倉殿として、頼朝の遠縁にあたる三寅を迎えます。わずか2才で鎌倉に下った三寅は、のちに元服して頼経と名乗りますが、彼の実家は摂関家の一つである九条家です。 公暁と阿野時元が相次いで討たれたことにより、源家嫡流の血筋が途絶えてしまったからです。将軍殺害の張本人である公暁は当然として、時元の方はどうでしょう?『吾妻鏡』によれば、時元は「駿河国の山奥に武装拠点を構えて挙兵を企て、朝廷から宣旨をもらおうとしていた」となっていますが、本当のところはよくわかりません。そもそも鎌倉と京との間で、次期鎌倉殿として誰を下向させようか、という交渉を進めている最中に、時元を将軍
北条義時が政治的実権を握っていた鎌倉、なぜ「鎌倉殿」は必要とされたのか?
鎌倉殿の時代(47)鎌倉はなぜ鎌倉殿を必要としたのか
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