赤穂城の復原された大手門と隅櫓(復原) 撮影/西股 総生(以下同)

(歴史ライター:西股 総生)

「堅城」が築けなかった理由

 ふと、赤穂城を再訪したくなったのは、たぶん年末のテレビで再放送していた赤穂浪士の時代劇を見たからだ。新幹線を姫路で降りてJR赤穂線に乗り換え、30分ばかり揺られて播州赤穂駅に着く。

 駅前の通りをまっすぐ歩いて行くと、通りの先に隅櫓と大手門が見えてくる。現存建物ではなく復原されたものだが、それでも〝お城〟感のある景観が目に飛び込んでくると、気分が上がるものだ。

復原された大手門と隅櫓。大手門の木橋に横矢が掛かるように石垣のラインを折っている

 ばっちり横矢の掛かる木橋を渡って大手門をくぐり、厳重な枡形を抜けて進むと、大石内蔵助邸跡の長屋門が残っている。三ノ丸には重臣たちの屋敷が建ち並んでいたのだ。中でも国家老の大石家は、大手門のすぐ近くという防禦上の要所を任されていた。

 大石邸を過ぎて、二ノ丸から本丸と進むが、坂道や石段はいっさい登らない。この城は、完全な平城なのである。石垣や堀は近年になって整備復原された箇所もあるが、それでも石垣は全体に低く、堀幅もあまり広くない。正直、さほどの堅城とも思えないのだが、これにはワケがある。

大手門を入って進むと大石内蔵助邸の長屋門が残っている。三ノ丸には重臣屋敷が建ち並んでいた

 5万3千石をもって赤穂に入った浅野長直が、幕府の許可を得て築城を始めたのは慶安元年(1648)のこと。ときはすでに、豊臣家が滅びてからすでに33年をへた泰平の世。珍しく許された新規築城で、藩財政を傾けてまで堅城を築くことはできなかったのだ。

 その赤穂浅野家、赤穂浪士モノの時代劇ではよく「広島の本家」というセリフが出てくるので、大藩である広島浅野家(42万石)の弟あたりが、5万石余を分知されて赤穂に入ったのだろう、くらいに思っている人が多い。でも、この家の成立事情は、少々込み入っている。