(乃至 政彦:歴史家)
◉武田信玄の「西上作戦」を考える(1)
(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/66465)
◉武田信玄の「西上作戦」を考える(2)
(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/66471)
戦地禁制は民間の希望で出された
前回は戦地禁制から、もし本格的に上洛戦を展開したとしても武田軍が兵糧に困ることなどないだろうということを書いた。この時代、大名の軍勢が自ら兵糧を用意することはまだ一般的ではなかった。食料は民間に溢れ返っているのであり、軍勢はこれを現地で買い取りさえすれば、兵站など気にする必要などなかったのである。これを経済活動として「うちに来てください」
前回は武田軍の戦地禁制とされるものを掲出したが、
武田軍を訪ねた京都の者たち
前回掲出した戦地禁制は、原本が存在しない。今伝わっているのは、写(うつし)である。
発給されたのは元亀4年(1573)3月となっていて、武田信玄死去の前月にあたるものである。当時三河に攻め込んでいた信玄の病状はすでに重く、これで徳川家康と織田信長を打倒して、同月中に京都まで突き進むなど、どう考えても不可能である。
実際、信玄の左右にいる者たちもそう考えていたらしく、京都の離宮八幡宮から戦地禁制を求めて軍中を訪れた使者たちに「今は禁制を出せない」として、次の返書を手渡している。
ざっくりと意訳文を示す(離宮八幡宮文書/『戦国遺文 武田氏編』2030号)。
わが主君・武田信玄の出馬につきまして、離宮八幡宮から戦勝祈願の文書や扇子などを承り、とても喜んでいます。その神領につきましては昔のまま、諸事の免除を認めたいと思います。ところで、戦地禁制につきましては玉蔵坊からもお話を受けましたが、遠国のことで、今のところ京都方面のことは先送りにしております。近江まで行くことになりましたら、準備を進めたいと思います。これらの通りで間違いありませんので、どうぞよろしくお願いいたします。【※1】
【※1】原文「就御出馬、八幡宮御祈之巻数并板物・扇子令披露候、御祝着之由候、随而庄内之儀、依為御神領、自往古諸事御免除之由、尤思召候、就其制札之事、玉蔵坊達而雖被申上候、遠国之事候者、京表之儀、先以御停止候、江州迄も於御出張者、可相調候、其段可被任両人置候、不可有相違候、恐々謹言、
三月廿六日 宗慶(僥倖軒)(花押)/昌続(土屋)(花押)
城州大山崎
惣中」
差出人の宗慶は武田信玄の侍医で、土屋昌続は信玄の側近である。昌続は信玄が病没すると殉死を考えるほど信玄に近しい武士であった。彼ら2人は信玄に近侍しており、重病状態の時に主君のもとから離れているとは考えにくいので、離宮八幡宮の使者たちが信玄の本陣まで遠路遥々辿り着き、そこで信玄に代わり、対応したと見ていいだろう。