春日山城(新潟県)の上杉謙信像

(乃至 政彦:歴史家)

義の武将と言われる上杉謙信だが、今回の連載の主体である関東への出陣について「雑兵たちを食わせるため、人狩り(誘拐)や乱取り(略奪)を常習する出稼ぎだった」という衝撃的な異説がある。義将か凶将か。その前に生身の人間として観察することにする。(JBpress)

上杉謙信と人狩り

 義の武将と言われる上杉謙信について、「関東への出陣は、雑兵たちを食わせるため、人狩り(誘拐)や乱取り(略奪)を常習する出稼ぎだった」という衝撃的な異説がある。

 今回はこの異説を、掘り下げてみたい。ただし、義将か凶将かという二択の問題にすると答えが偏るので、そうではなく生身の人間として観察することにしよう。

 まず人狩りについてである。

 この説の謙信は、関東で奴隷狩りを繰り返し、そこで人市を開かせて、荒稼ぎしていたことになっている。義戦とされる越山は、そのための方便だったと言うのである。

 これには、東国の奴隷売買にそれほど大きな市場があったのかという疑問に始まり、人市という史料に依らない造語など、無数の問題があるものの、なぜか無批判に信じられている。

 この説の根拠とされている史料を取り上げよう。

二月の小田開城と春中の人の売買

 永禄9年(1566)2月16日、謙信(当時は輝虎)が常陸の小田氏治の居城を攻めて、降参させた。このとき、有名な事件が起こった。戦争捕虜の取り引きである。

「九丙寅二月十六日小田開城、カゲトラヨリ御意をモツテ、春中人ヲ売買事、廿銭卅弐程致シ候」(『和光院和漢合運之事』)東京大学史料編纂所蔵

 これを普通に現代語訳すると、「小田城が降参した。謙信(=カゲトラ)の許可があり、春中に捕虜が売買された。20銭で32件ほど行われた」と読むことになろう。

 ところが、この記事が書かれた「和光院和漢合運之事」(『古文書雑集』[二])を実際に見てみると、次のところで改行されている。

「九丙寅、二月十六日小田開城、カゲトラヨリ御意をモツテ、
 春中人ヲ売買事、廿銭卅弐程致シ候
 八月関東に鹿島大明神仏侘依潤ヲ六月ニナシ候」

 ここでは二月と春中と八月が年次の下段に等しく並んでいて、ほかの年次でも、月はすべて同段に置かれている。これらは箇条書きの書式である。

 これを前提に、永禄9年の内容を見直すと、通常の解釈と異なることが見えて来る。

 まず、「二月十六日」のところは体言止めで「謙信が小田城の降参を許可した」と述べている。次いで「春中」は、「人の売り買いがなされた」ことを記している。そして「八月」には鹿島暦に触れた記事となっている。

 この宗教史料は、改元や戦災ならびに天災、宗教行事のことを中心に筆記するものである。すると小田城の降参と人身売買はまったくバラバラに独立する記事で、この人身売買も小田城とはまったく無関係なものなのである(参考:今福匡『上杉謙信』)。

 ここで同じ事件を記す『四吉備雑書』も見てみよう。

「永禄九年丙寅 小田二月十六日開城 カゲトラヨリ御意をモッテ、
 永禄九年丙寅 春中人ヲ売買事、廿銭卅■程致シ候」

 ここでは「小田開城」と「人ヲ売買事」が、別項目の事件として、それぞれ独立する形で記されている。

 これが明治期に『越佐史料』などで活字化されたとき、なぜか同じ行にくっつけられてしまった。ここから「小田城が降参させた謙信が、人身売買を許可した」という意味で読まれることになってしまったのだ。

 ここで仮に、謙信が2月の小田城の降参だけでなく、春中の人身売買まで許可をしたのだとしよう。それでもこれは人狩りの史料とはならない。この史料を通読すると、この事件以外に人身売買の記事が見えないのである。当時「人を商買」すること(戦争捕虜の身内から身代金を取ること)は「東国の習い」であった(真田家文書、天正18年4月29日付、真田昌幸宛)。ならば、どうしてこのときだけ特筆される必要があったのだろうか。それには何か理由があったはずである。

 この時代の戦争捕虜は、2〜10貫が相場であった(30万〜150万円ほど。『甲陽軍鑑』による。武田軍は信濃の捕虜を甲府で取り引きさせた)。しかしここではその1パーセントほどの値段で、身内に買い戻しやすく設定されている(3000円ほど)。するとこれは、事実上の捕虜解放であるだろう。記録者の宗教家が、この事件を特筆したのは、前例のない歴史的事件として認識したことになる(参考:拙著『上杉謙信の夢と野望』)。