落合芳幾『太平記拾遺四十六』より太田三楽齋(部分) 東京都立図書館

(乃至 政彦:歴史家)

数回もの戦いを経て川中島合戦は終了。上杉、武田両軍とも両軍とも甚大な損耗を被りながら、自らの戦勝を強調した。謙信不在の関東では、北条氏康が軍事行動を重ねていた。謙信も信玄も氏康も、みんな満身創痍だった。それでもかれらの戦いは終わらない。謙信は初期戦略を遂行するため、すぐにまた関東に越山することになる。(JBpress)

まだ続いていた第一次越相大戦

 永禄4年(1561)9月、川中島合戦は終わった。上杉政虎(謙信)はこの戦いで「八千余りを討ち捕」ったと関白に伝えた。武田信玄も京都清水寺の成就院に「敵を三千人討ち捕」ったと伝えた。両軍とも甚大な損耗を被りながら、自らの戦勝を強調したのだ。

 その間、政虎不在の関東では、北条氏康が軍事行動を重ねていた。氏康は越山した政虎と直接戦闘を回避していたので、死傷者こそ少なく、奪われた勢力圏を回復する余力があった。だが、継戦を強いられる民衆の負担は大きかった。

 その様子は、同年11月22日付の北条家朱印状に顕れている。ここに、郷村の百姓たちが、「陣夫」として輸送役に従事させられるのを拒否する実態が並べられているのだ。北条氏は、乱後に話し合うから今は説得するようにと伝えたが、長い北条政権で先例のない強引な指示ぶりである。もはや関東は“この地すでに地獄なり”とでもいうべき様相を呈していた。

 政虎も信玄も氏康も、みんな満身創痍だった。それでもかれらの戦いは終わらない。この「関東大破、持氏以来」(『大般若波羅蜜多経識語』)と呼ばれる100年来の大乱はまだ始まったばかりだったのである。

 政虎は川中島合戦を終えると、初期戦略を遂行するため、すぐにまた関東に越山することになる。なんと、第一次越相大戦は、川中島を挟んでもなお継続されていたのだ。

古河城からの越山依頼

 政虎は北信濃にしばらく留まり、武田軍と小競り合いを続けた。すると会戦直後で信玄の動きが鈍かったらしい。戦闘をやめて春日山城へ帰陣した。しかし一息つく余裕はなかった。古河城に残っていた関白・近衛前嗣が、「氏康が武蔵の松山城近くに布陣している」との知らせを寄せてきたのだ(10月5日付・近衛前嗣書状)。前嗣は「火急」の事態なのですぐ「越山」して欲しいとも述べた。かくして政虎は休む間もなく、越山を再開することにした。

 松山城の危機は捨て置けない。

 武蔵一国はおろか関東の政局を揺さぶりかねない事態だからだ。ここは同国の岩付城主・太田資正(後の三楽斎)が受け持つ城である。一城主に過ぎない資正が、大国の国持大名である北条氏康・氏政父子を相手取り、独力でその侵攻を阻止するなど、ほとんど無理なミッションである。守るべきは松山城だけではなく、ここを中心とする防衛ライン一帯なのだ。