(乃至 政彦:歴史家)
永禄4年(1561)9月10日早朝、第四次川中島合戦で上杉軍は「車懸りの陣」を発動。武田軍は鉄炮隊からの集中砲火を受けた。上杉軍の狙いは人を殺すことではなく、敵の隊列を崩し、自らの進路を作ることだった。実は武田軍は天文17年(1548)の信濃上田原合戦で、老雄・村上義清に同じ状況で追い詰められていた。(JBpress)
第四次川中島合戦と上田原合戦
永禄4年(1561)9月10日早朝、信濃川中島で「車懸り」の戦術が発動された。
武田軍は鉄炮隊の集中砲火に苦しんでいた。上杉軍の狙いは、
先に進む道が確保できそうになったら、ついで弓矢を放ち、
かれらはかつて、今と同じ状況に追い詰められた記憶がある。天文17年(1548)の信濃上田原合戦である。
あのとき敵の総大将である老雄・村上義清は、この戦術で武田軍の本陣を衝いてきた。野戦では個人戦でしか使われていなかった鉄炮を集団戦に使い、
双方の損耗を省みることなく、敵の枢軸へ強引に押し迫り、
上田原では村上軍の企み通りにことが進み、
村上義清の無謀な突撃
自軍は瓦解寸前だった。これを見た足軽大将の山本勘介は、冷静に状況を読み解いて、対応策を提言した。縦に伸びた村上義清の馬廻(=旗本)を斜め横から襲い、その動きを乱すべしというのである。総大将の武田晴信(後の信玄)は、即座にこの策を採り、実行を急がせた。だが、とうてい間に合わない。
侍と侍同士が白刃をぶつけ合い、火花を散らせた。
このままだと恐慌状態に陥るしかない。覚悟を決めた晴信は、軍馬にまたがり、
28歳の若き晴信は、老年の義清に負けてなるかとばかりに勇戦した。だが、不覚を取った。二箇所の怪我を負わされたのだ。義清は味方が手薄になって、撤退した。
それにしても、義清の後先考えないデタラメな戦術で、総大将が怪我をさせられるのは痛手であった。あってはならないことだった。
晴信たちは、これを「今回だけの不幸な事故だった」と考えたであろう。次からはこんなことのないようにと、家中の侍たちにも訓戒したに違いない。不覚は取ったが、義清の作戦を不首尾に終わらせ、最終的には勝ったのである。勝因は、勘介の助言を採った晴信の采配が的確だったことに尽きるだろう。