青葉城(宮城県仙台市)にある伊達政宗像

(乃至 政彦:歴史家)

 この半年ほど「謙信越山」をテーマとして連載しているが、現行の大河ドラマ「麒麟がくる」もこれからしばらく別の作品へ移るようなので、これを機にたまには別の話をしてみよう。今回の番外編は、「伊達政宗の撫で斬り悲話」の真偽を問う。戦国武士の残虐性を問うのに有用なテーマとなるだろう。

伊達政宗と小手森城の攻略戦

 天正13年(1585)閏8月27日、戦国武将の伊達政宗は、陸奥国安達郡にある大内定綱の小手森(おてのもり)城を攻めた。定綱は政宗に味方すると言いながら、裏切ったのでその報いを受けさせる必要があると考えたようだ。だが、伊達軍がじりじりと迫る中、定綱は小手森城を脱した。

小手森城跡(福島県二本松市) 写真:Wikipedia

 脱したのは24日の夜である。後の守りを側近たちに任せて本城に帰還したのだ。獲物を逃した政宗は、まだ20歳前の若武者で、血気盛んだった。当然ながら、その怒りは「逃げ足の早いやつめ」と舌打ちする程度で収まらない。

 ここで凄まじい惨劇が広げられてしまう。政宗が、陥落させた小手森城で、大量虐殺を行ったというのだ。

 その内容は、落城当日、政宗が伯父の最上義光に宛てた書状に告白されている。世に言う「小手森城の撫で斬り」である。

 政宗の手紙から該当部分を引用してみよう。

「大内定綱に直属する者を500人以上討ち捕りました。そのほか女子供だけでなく犬までも撫で斬りにしました。合計1000人以上を切らせました(五百餘討捕、其外女童ニおよはつ、犬訖なて切ニ為成候条、以上千百餘人きらせ申候)」

 城内にいた大内家臣(侍)と奉公人(一般人である従者とその家族)のほか、動物まで殺害させたというのである。事実とすれば、戦慄すべきジェノサイドだ。

 政宗手紙はほかにもある。翌日、伊達家臣の後藤信康にも「小手森城を攻め落とし、200人以上を撫で斬りにした。実数は把握していないが、わたしは満足したということにしよう(小手森責落候而、二百餘撫切、不知其数候、定而可為満足候)」と、その殺戮を誇らしげに伝えているのだ。

 まだある。翌月、政宗は僧侶の虎哉にも手紙を書いた。そこでは「大内定綱に直属しない者も男女の区別なく残らず討ちました。合計800人以下を討ち捕りました(其外男女共ニ不残討、以上八百人計討捕候)」と伝えたのだ。

 すべて一次史料(当時の記録)に書かれており、しかも政宗本人の証言であるため、信頼度は高いと見られている。だが、どの手紙も人数がバラバラで、微妙に表現が異なるのが不可解である。例えば、有名な「犬までも撫で斬り」という内容は、最初の最上義光宛書状にしか書かれていない。

 これはどういうことなのか。一緒に考えてみよう。

一次史料に明記された政宗の証言

 単純に見るならば、政宗は相手によって伝えるべき情報をコントロールしたことになろう。

 まず最初に事件を伝えた最上義光は、組織的には部外の当主であるから、自らの戦果連絡に誇張を交えていて構わない。むしろ受け取る側も「誇張や粉飾があって当たり前だ」と思っているから、そこを踏まえて、出来る限り大袈裟に伝えることが重要だ。

 いっぽうで、家臣に書き送った翌日の手紙では、殺害人数を「200人以上」と、義光に知らせた人数の20%ほどに下げており、かなり少ない。それに、「実数は把握していない」と書いてあることも気にかかる。まるで、「俺はたくさん殺害させたが、詳しいことや具体的なことは知らない」ととぼけているようでもある。それでも「満足したことにしよう」と述べているように、事実関係を曖昧にしたまま、作戦を落着させようとしている様子がうかがえる。

 そして翌月、地元の僧侶に宛てた書状では、人数を少し増やして、「800人以上」を殺害したと伝えている。ここでは、敵の家臣以外の男女も区別なく殺害したことも述べているが、義光宛書状で触れられた、子供や犬の撫で斬りについては何も述べられていない。

 小手森城の撫で斬り事件は、このように政宗自ら発した情報ですら、大きな揺れがあって整合性を取れないようになっている。歴史上の悲劇的な事件は、およそインパクトの大きな情報を真実だと見る傾向が強く、その声は自然と大きくなるので、「政宗は小手森城を落とすと、男女はもちろん子供や犬まで撫で斬りにした。合計1000人以上が殺害された」という最大限に誇張された情報が通説のように語られがちになっている。

 果たして真実はどうなのだろうか。ここで別の二次史料(後で書かれた記録)に視点を転じてみよう。