東明寺にある川越夜戦跡(埼玉県川越市)

(乃至 政彦:歴史家)

 日本三大奇襲のひとつでもある「河越合戦」。上杉憲政と足利晴氏の連合軍に、北条氏康が約10倍もの兵力の差を覆して勝利した戦いとして名高いものの、いまだ不明な点が多い。この戦いがどのようなものであったか、大敗によって人生が暗転した上杉憲政を軸に検証する。  (JBpress)

河越合戦は氏康と誰の戦いだったのか?

 日本史上の戦乱や肖像画が、通説からひっくり返る例が増えてきた。たとえば関ヶ原の首謀者は、石田三成ではなく、毛利輝元だった。元亀争乱の信長包囲網も将軍・足利義昭が画策したものではないことが見えてきた。家康の有名なしかめ像や、書籍の表紙でよく見かける光秀の肖像画が、それぞれ無名の別人だったことも過去(実は別人?確証のない戦国武将の肖像画)に述べた。

 上杉憲政についてもつつがなくに家督を継いだお坊ちゃんではないことが明らかになっている。かれは子供時代、ひょんなことから反乱軍に担がれて管領職に就いたのだった。不幸ないきさつから当主になった憲政だったが、それでも高い理想を胸に育みながら大人になっていった。

 さて、その憲政の人生を大きく暗転させた河越合戦の大敗が、どのようなものだったのか。これを今から見直していきたい。

古河公方足利晴氏の参戦

 前回述べたように、天文14年(1545)の河越城攻囲には、憲政の主筋にあたる古河公方・足利晴氏が、最初期から参加していた。公方の配下である憲政に、晴氏を強制的に連れ出す権限はない。自然に考えて、これは晴氏が憲政と計画して企てた合戦である。つまり憲政はこの城攻めで、北条氏康と対決する意思があったけれども、進退の決定権は総大将たる晴氏にあり、河越合戦は「憲政vs.氏康」ではなく、「晴氏vs.氏康」または「公方・両上杉連合vs.北条」の構図でスタートしたのだ。

 傍証として、かつて憲政は「君(公方)」のため、「民」のため、氏康と「決戦」するつもりだと願文に書いたことがある。憲政が、公方のため氏康と戦うと明記したことと、その後、晴氏が氏康打倒のため挙兵した事実から、晴氏と氏康の間に確執があったのは間違いない。晴氏と宿老たち(特に簗田氏)は、憲政を頼むべき忠臣と認め、河越攻めの準備をその双肩に託したのである。

河越合戦の参加人数

『甲陽軍鑑』によると、このとき憲政は関東諸士を大々的に動員し、「八万余」の大軍を集めたと言われている。しかしこの人数には疑問がある。

 なぜなら、この合戦においてより信頼できる史料『太田安房守資武状』(河越合戦に参加した太田資正の息子の覚書)を見ると、憲政らが河越城を攻めていたところへ北条軍が現れ、連合軍が「前後」から「包囲」されたことが確かめられるからだ。河越の籠城兵は約3000人。氏康の動員人数はどの史料を見ても8000ほどが限界。この人数で、氏康が連合軍を「包囲」できたとすれば、総数は通説の半数もいなかっただろう。もし本当に10倍もの差があったら、戦後の氏康はそれをもっと大々的に宣伝材料としたはずだが、そのような形跡は何もない。

 公方・両上杉陣営に参戦していた人物で確実視できるのは、当時の書状や覚書に記録される太田資正、小田政治(氏治の父)の代官・菅谷隠岐守、この合戦で戦死した憲政馬廻の本庄宮内少輔・原内匠助・倉賀野三河守、公方家臣の難波田弾正左衛門(善銀)・小野因幡守である。討ち取られた連合軍の人数は「三千余人」と記録されるので、それ以上の人数がいたことは間違いないが、それにしても『甲陽軍鑑』の人数差が何を根拠としたのかは詳らかではない。

 ちなみに河越合戦は、川中島合戦や国府台合戦のように、何度も同じ陣営で繰り返されている。もちろんその参加人数や規模は合戦によって異なっている。この合戦の7、8年前の天文7年(1538)の河越合戦で、「両上杉軍は常・総・房・野州の士卒を催した。(両軍は)およそ八万六千余(の人数で対峙した)」という記録がある。しかもこの人数は上杉と北条の総合計であるはずなのだが、『甲陽軍鑑』の記述はこの情報を混同してしまい、上杉憲政8万vs.北条氏康8000人の構図を作ってしまったようである。

 片方の陣営だけで8万人を動員できたら、関ヶ原クラスの合戦である。そんな大軍がこの時代の関東で、それも片側の陣営だけで作れるはずがないのだ。なお、『甲陽軍鑑』は意外にも北条関連の記述に間違いが目立っている(早雲を「素浪人」出身と書くなど)。

 このときの上杉憲政は、たしかに連合軍を動員したが、先学が指摘するように大規模ではなかったのだろう(久保田順一『上杉憲政』戎光祥出版)。