居城である小田城を奪われるたび、奪還してきた「常陸の不死鳥」小田氏治。彼が「戦国最弱」ではなく、むしろ周囲が氏治を強敵として恐れていたという。史上最大の決戦から、氏治の強さを見ていこう。(JBpress)
(乃至 政彦:歴史家)
戦国のキングギドラ
常陸国の武将・小田氏治(天庵)は昨今、「戦国最弱の武将」などと可愛らしく呼ばれている。その理由は、いつも大きな合戦に大敗するばかりか、そのたびに本拠地の小田城を奪われる屈辱に面しているからだという。ただ、「常陸の不死鳥」という響きのよいキャッチフレーズもあるように、何度も小田城奪還を果たしてもいる。
だが、氏治が本当に「戦国最弱」だったかというと疑問がある。第一に、氏治が負けるのは、常に自軍以上の大軍と争っている時である。第二に、小田城の陥落もほとんど多国籍軍の攻撃を受けてのものだった。
上杉謙信による永禄9年(1566)の「小田開城」は、関東中の連合軍に包囲されてのものだ。氏治を攻める側はいつも味方を大量動員して、氏治は寡兵でこれに立ち向かい、敗れただけのことである。
とはいえ、重要な合戦でことごとく負けているのは事実である。だが、これは「戦国最弱」だからではなく、むしろ周囲が氏治を強敵として恐れていた結果である。氏治と戦った者たちはその戦闘力をひどく恐れ、事前の作戦で優位に立てるよう対策してから交戦している。
なお、近世の二次史料(軍記や系図など)は敗軍の将に厳しい評価を加えるのが常だが、これらはいずれも氏治を勇猛な名将だったと称賛している。皆さんもフィクションの世界などで「あり余る力量がありながら連敗してしまう大敵」には見覚えがあるはずだ。
別に氏治の名誉回復を願うわけでもないが、ここでは「戦国最弱」ではない別の異名で呼んでみたい。〈戦国のキングギドラ〉である。
小田氏治史上最大の決戦
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前回は、小田氏治が海老ヶ島合戦に向かう直前までを描いた。今回はその合戦そのものを描写したい。
合戦前の氏治は、敵対する結城政勝にとても恐れられていた。常陸の大将・佐竹義昭と秘密同盟を結んでいたからである。ちなみに氏治はこの日まで本格的な合戦をしておらず、
政治死後の氏治は、政勝とすぐ険悪な関係になったが、政勝はあえて何も仕掛けず、力を蓄えることに専念した。これを見た氏治が開戦準備を整えると、なんと政勝は関東随一の大名・北条氏康に自ら進んで属す決意をくだした。しかも有事に備えて、周辺の領主たちとも連絡を絶やさなかった。氏治はそれほどまで恐れられていたのである。
舞台に登場する前から「金星を滅ぼした宇宙怪獣」などと、その強さを鳴り物入りで喧伝される点はキングギドラと一致する。先代の武威により、小田氏治は異常に警戒されていた。
また、氏治個人も「強数奇(つよすぎ)」「血気盛ん」などと記録されるように野心と闘魂がギラギラと輝ききっていた。ギドラも氏治も単体で挑むには危険すぎたのである。
おまけに氏治は武士のキング・足利義教の血筋だという伝説がある。もしも結城軍に大勝すれば、あるいは本当に関東のキングになる未来もあり得ないわけではなかろう。
小田・菅谷・信太からなる三頭竜
ギドラの造形は三頭竜で、単純に見て脳味噌が普通怪獣の三倍ある計算になる。ただ、この頭脳が有効活用された様子はなく、いつも肉体勝負に出るパワーキャラとされている。
小田氏治にも、菅谷勝貞という優れたブレーンがいた。信太重成という心強いバックもいた。特に勝貞は、事あるごとに適切な意見を提言する軍師ぶりを発揮していた。ただ、氏治はこれをまったく聞き入れず、力押しばかりに頼む悪癖があった。この点もギドラ風であろう。反則的な侵略を好むところも共通している。
今回、氏治は佐竹義昭を相棒に選んで、結城勢を滅ぼす計策を進めていた。
若い氏治は、
義昭はよく働いてくれていた。義昭は、結城政勝が尻尾を振っている北条氏康に、「最近は小田氏治と不仲になって困っています」などと嘘八百の手紙を送り、これを真に受けた氏康が「これなら政勝も安心だろう」とまんまと騙され、房総戦線に本腰を入れ始めた。
これで政勝は、北条の援軍を期待できない状況に陥った。この分なら関東の天下を取るのもたやすいだろう。
だが、政勝とその盟友である陸奥国の白河晴綱は、小田と佐竹が親密に交わっているのをよく観察していた。晴綱は、義昭の使者が小田原まで往復しているのを見て、氏康に「どういうことですか」と詰問する手紙を送りつけた。驚いた氏康はすぐ各地に使价を派遣して、結城城まで北条家臣と古河家臣の将士を大勢で駆けつけさせた。房総方面とは別に温存していた虎の子であった。
こうして小田・佐竹連合は結城方を追い詰めているつもりでいながら、すべてが簡単に露見したため、かえって氏康を本気にさせてしまったのである。決戦のときが迫る。