(写真はイメージ)

(乃至 政彦:歴史家)

将軍の奉公衆だった明智氏

 美濃明智氏は足利将軍家の「奉公衆」として勤仕してきた家柄である。奉公衆は名門の武士たちで構成される将軍の直轄軍事力である。直属兵であるから、彼らもこれを名誉の職として誇りに思い続けてきた。明智氏は15世紀の史料『文安年中御番帳』などに奉公衆の一員としてその名を連ねている。 

 しかしそれが明智(惟任)光秀の代になるとなぜか「足軽衆」とされている。この間になにがあったのか詳らかではないが、奉公衆と足軽衆とでは歴然たる身分差があるはずだ。

 このため、代々奉公衆だった美濃明智氏と足軽衆にされた光秀は別の氏族ではないかとするのが、渡邊大門氏の指摘である(『明智光秀と本能寺の変』ちくま新書・2019)。これは見逃せない問題であるだろう。

 ただ、わたしはこの疑問についてすこし気になることがある。歴史学で中世末期の足軽の研究があまり進んでいないため、この将軍の足軽衆というのがどうして創設され、どのような仕事をしていたのか、そしてどういう位置にいたのか皆目わかっていないことだ。

足軽衆の創設

 つまり「足軽衆というぐらいだから、何となく低い身分なったのだろう」という印象論以上の掘り下げがなされていないのだ。これについてわたしは『信長を操り、見限った男 光秀』(河出書房新社・2019)で、将軍の足軽衆は16世紀の第13代将軍・足利義輝(よしてる)の警備兵が不足したことに端を発するものだろうと私見を述べた。

 義輝時代の将軍は相次ぐ戦災と幕府政治の混乱により、信頼できる若党、小姓、近習といった兵員の補充ができなくなっていた。将軍の身辺警護をする人材が欠乏して、幕臣たちがその代用に信頼できる兵員を確保するしかなくなった。こうして足軽衆という組織が創設され、弟の15代将軍・足利義昭に引き継がれたと考えられる。こうして光秀は義昭の「足軽衆」リストにその名を記されたのである。