教科書にでも載っているような「戦」や「事件」でも、基本的なことが明らかになっていないものはたくさんある。例えば、前回紹介した日本史上もっとも有名な事変「本能寺の変」。織田信長の遺体の在りかは、ある2つの有力な説を中心に決着を見ていない(http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/54295)。また、その信長の名を知らしめた「戦い」のひとつ、桶狭間の戦い――この「桶狭間」なる場所も同じである。果たして織田信長はどこで今川義元を討ったのか? 歴史学者・小和田泰経氏が戦国時代の謎を掘り起こし、真相に迫っていく。(JBpress)
そもそも桶狭間とはどこに当たるのか?2つの候補
桶狭間の戦いといえば、尾張国(愛知県)を統一したばかりの織田信長が、攻めて来た駿河国(静岡県)の今川義元を破った合戦としてつとに名高い。
永禄3年(1560)5月19日のことである。ただし、戦いの名前は有名であるものの、実際にどのような合戦が行われたのかということになると、実のところ、よくわかっていない。戦いの経緯を詳細に記す同時代の史料が残されていないためである。
そもそも、戦いのあった場所すら、明らかではない。
そのため、実は、桶狭間の古戦場伝承地が、2か所も存在している。その2か所というのが、愛知県豊明市の「桶狭間古戦場伝説地」と、愛知県名古屋市緑区の「桶狭間田楽坪古戦場公園」である。ともに愛知県だが、2か所は市境を挟んで1km以上も離れている。
豊明市の「桶狭間古戦場伝説地」には、江戸時代初期の段階ですでに義元の墓があったらしく、寛永5年(1628)、俳人の斎藤徳元が東海道を通って関東に下向した際に記した『関東下向道記』には、「織田の信長公、駿河義基(義元)と夜軍有しに義基たたかひまけて此所にて果給ひし古墳なり」とある。この場所には、明治9年(1876)、義元の墓が建てられた。昭和12年(1937)には国の史跡に指定されたため、史跡指定標柱も建てられている。
一方、「桶狭間田楽坪古戦場公園」も、古くから義元最期の地として伝承されており、出土した「駿公墓碣」と刻まれた墓が建てられている。「駿公」というのが、駿河国の太守であった義元のことであることは言うまでもない。この一帯は、近年になって史跡公園として整備され、園内には、義元と信長の銅像のほか、義元が馬をつないだとされる「義元馬つなぎの杜松」や義元の首を洗ったという「義元首洗いの泉」などの史跡もある。