戦国時代における「一向一揆」の実像について、史実および東洋大学・神田千里教授の著書『一向一揆と石山合戦』を基に、筆者の見解を交えて3回にわたって解説しています。

(その1)「極貧寺の蓮如、圧倒的『子だくさん力』でカリスマに」
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/53853

(その2)「なぜ一向一揆は信長にケンカを売ったのか」
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/53878

 前回(その2)は、一向一揆を組織した浄土真宗本願寺派がどのように戦国大名化し、織田信長との石山合戦(1570~1580年)にまで至ったのかを紹介しました。一般的に石山合戦は「宗教戦争」として語られがちですが、実態としては、本願寺派が室町幕府と親密な関係にあったため信長と対立し、抗争が引き起こされたという見方を示しました。

 最終回となる今回は、石山合戦以降の本願寺の動向を追いつつ、現在の京都市内にある東本願寺、西本願寺をそれぞれ頂点とする東西本願寺体制がどのように設立したのかを紹介しましょう。

和睦後も石山本願寺に立て籠り

 織田信長と抗争を繰り広げていた時代の本願寺は、現在の大阪市にあった石山本願寺を本拠地として立て籠り、長期にわたり信長を苦しめ続けました。