しかし教如の継承に異を唱える声が本願寺内部から上がってきました。
声を挙げたのは三男の准如(じゅんにょ)と、教如と准如の実母であり顕如正室であった如春尼(にょしゅんに)、そして和睦後にすぐ石山本願寺から退去することを選んだ穏健派たちでした。
(ちなみに妻帯が認められる浄土真宗本願寺派において、法主正室の権力は強く、同時代の様々な外交文書にもその名が現れるなどその影響力は非常に大きかったようです。)
穏健派は、「顕如の元々の意向は、准如に継承させるつもりだった」と秀吉に訴えかけました。この訴えを聞いた秀吉の裁断もあって、教如はすぐに法主の座を准如に譲り、一介の僧侶となって本願寺内に残りました。
しかし法主の座を降りたとはいえ、教如の周りには彼とともに石山本願寺退去に抵抗した強硬派が集まっていました(前述したように、教如は和睦後も強硬派とともに石山本願寺に立て籠もりました)。そのため、本願寺内部では強硬派からなる教如派と、穏健派からなる准如派とで二派に分裂し、各方面で対立するようになりました。
徳川幕府の寄進によって東西分裂
そのような火種を内部に抱えていたところ、徳川幕府が誕生したことで本願寺に転機が訪れます。
「関ヶ原の戦い」から2年後の1602年、徳川幕府は隠遁した教如に対して京都市下京区烏丸七条の地を寄進します。これを機に、教如とそれに付き従う強硬派は寄進された土地へと移り、ここに現在の「東本願寺」と呼ばれる寺社を建立します。
こうして同じ京都市内、それもお互いすぐ近くに、東と西の2つの本願寺が存在する東西本願寺体制が成立するに至ります。
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