古河公方の本拠だった古河城の遺構(茨城県古河市、出所:Wikipedia

 先週、夏休みスペシャルとして「『応仁の乱』よりも前から鎌倉は戦国時代だった」(http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/50787)「かつて湘南ビーチは合戦の舞台だった!」(http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/50789)という2本の記事を掲載しました。歴史マニアの筆者が、室町時代における鎌倉府の成り立ちと足利幕府との関係を中心に、関東地方がどのようにして戦国時代へと突入していったのかを紹介する内容でした。

 これらの記事が思いのほか好評で、「面白かった」「ぜひ続きを」という声をいただきました。そこで今回は続きとして、関東が実質的に戦国時代へと入り、関東の武士たちが東西真っ二つに分かれて約30年にもわたり争った享徳の乱について紹介したいと思います。

 なお、筆者は現在、中国・上海に住んでおり、前回コラムを見た友人からは「なんで上海にいながら鎌倉の歴史について語ってんの?」と言われました。

鎌倉府の内部抗争がエスカレート

 室町時代、西日本と中日本を支配する京都の足利幕府に対し、実質的に東日本を支配し半ば独立政権めいた権力を持っていたのが鎌倉府です。その長官である鎌倉公方(かまくらくぼう)の4代目に当たる足利持氏(あしかが・もちうじ)が足利幕府に反抗したことから足利幕府により討伐され、鎌倉府は一度滅亡しました(1438年、永享の乱)。