日本の歴史のなかで戦国時代は確かに面白い。でも、戦国時代に至るまでの過程も実に面白いのです。歴史マニアの筆者が夏休みスペシャルとして、「戦国時代前夜」とも言うべき室町時代中期に関東地方で何が起きていたのかを紹介しています。
前回(「『応仁の乱』よりも前から鎌倉は戦国時代だった」http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/50787)は、京都の足利幕府を率いる6代将軍の足利義教(あしかが・よしのり)と、足利幕府の鎌倉支社にあたる「鎌倉府」を率いる4代鎌倉公方の足利持氏(もちうじ)が激突した「永享の乱」(1438年)を紹介しました。この戦役によって足利持氏は敗死し、鎌倉府は取り潰されます。
しかしその後、義教は、将来の粛清を恐れた守護大名、赤松満祐(あかまつ・みつすけ)に京都で暗殺されてしまいます(嘉吉の乱、1441年)。将軍の権威・権力の拡充に腐心した義教でしたが、皮肉なことに白昼堂々と自身が暗殺されたことによって将軍の権威はそれ以前よりも失墜してしまいました。
「鎌倉府」の再興
義教の死後、将軍の後継にはその遺児でまだ幼い7代義勝が就きましたが、就任からわずか8カ月で早逝し、次いで同じく義教の遺児であり義勝の弟である8代義政が継承しました。しかし、将軍の代替わりが続いたことから中央(京都)の政権は混乱を極め、おそらく関東を含む東国支配云々に構っていられる状況ではなかったのではないかと思われます。