最終的には朝廷を仲介として信長との和睦に応じ、時の法主であった顕如(けんにょ)は和睦の条件通り石山本願寺を退去しようとします。しかし、これに異を唱えたのが顕如の長男である教如(きょうにょ)でした。教如は信長が和睦条件を守らない恐れがあるとして反対し、彼に付き従う強硬派の面々とともに石山本願寺に立て籠り続けました。

 この時の教如の行動は彼の独断専行と見る向きが多いようですが、信長が和睦の約束を破り、退去した本願寺勢力に攻撃を加える可能性を考慮し、あらかじめ顕如と示し合わせた上で保険をかける意味での抵抗だったとする見方もあります。もし信長が約束を違えれば再び籠って戦い、約束を守るようであれば先に退去した一派が宗門を受け継ぐという、いわば関ヶ原において真田家が取った両面作戦だったという説です。

 実際に教如ら強硬派は威勢よく立て籠もったものの、信長がきちんと和睦条件を果たすことを確認できたからか、半年後には退去に応じています。退去後、教如は父の顕如から義絶(肉親の縁を切ること)されてしまいますが、その近くに仕え、父の布教活動を支え続けています。

後継者争いで穏健派と強硬派が対立

 その後、「本能寺の変」(1582年)で信長が倒れ、豊臣秀吉が天下を握ります。本願寺一派(法主は顕如)は、現在の西本願寺がある土地(京都市下京区)を秀吉から寄進され、この地を新たな本拠として落ち着きます。

 ただ京都へ移って間もなく、信長をある意味最も苦しめた男と言ってもいい顕如が逝去します。その後継者として一旦は長男の教如が就きます。