戦国時代における「一向一揆」の実像について、史実および東洋大学・神田千里教授の著書『一向一揆と石山合戦』を基に、筆者の見解を交えて3回にわたって解説しています。
前回は、戦国時代初期に「一向宗」こと浄土真宗本願寺派が勢力を拡大し、加賀一向一揆で守護大名を撃滅させるまでに至った過程を紹介しました。第2回となる今回は、本願寺派がなぜ戦国大名化し、織田信長と敵対して抗争を繰り広げたのか、その背景と結末について紹介します。
(前回)「極貧寺の蓮如、圧倒的『子だくさん力』でカリスマに」
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/53853
戦国大名化する本願寺派
加賀(現石川県)の本願寺派宗徒は1488年の加賀一向一揆(長享の乱)で、当時、守護大名であった富樫政親を自害に追い込み、地元の国人(その領内の住民たち)勢力による半独立自治体制を打ち立てました。
一般的には、この加賀一向一揆を機に本願寺派が加賀を支配して「百姓の持ちたる国」が成立したと考えられています。
しかし、日本中世史が専門の東洋大学文学部教授、神田千里氏の研究によると、加賀一向一揆自体は本願寺派の指導層が扇動して引き起こしたものではなく、むしろ富樫氏の支配や弾圧に反発した「本願寺宗徒」の国人らが反乱して起こったものであり、本願寺派がすぐに加賀一国の支配を確立したとは言えなかったようです。