義昭の呼びかけに応じて三度目の挙兵

 二度目の和睦の翌年に当たる1576年、本願寺派は、中国地方の毛利家に身を寄せた足利義昭の呼びかけに応じ、信長に対して三度目となる挙兵を行います。この三度目の挙兵では毛利家と同盟を結び、石山本願寺を中心に戦闘を展開しました。かの有名な鉄甲船が登場する「木津川口の戦い」もこの戦役に含まれます。

 この時の挙兵の理由も、信長への憎悪がなかったとまでは言いませんが、前将軍である足利義昭の呼びかけに応じたものだった点は見逃せません。前述した通り、本願寺は室町幕府との親密性を糧に勢力を拡大してきた歴史があります。信長との対立は、室町幕府支持の延長線上にあったと言っていいでしょう。

 しかしこの三度目の挙兵でも、ほぼ天下を手中にしつつあった信長の前に戦況は挽回できず、1580年には朝廷が仲介する形で、本願寺派が石山を退去することなどを条件に和睦が結ばれます。この時の和睦は信長側からの提案とされますが、実態としては本願寺からの申し出によるものだったようです。

 信長もかつての伊勢・長島一向一揆の時とは異なり、本願寺一派の皆殺しは行わず、一部条件でこそ違約したものの、本願寺一派を赦免しています。このような和睦に至ったのも、もはや天下の趨勢が室町幕府から信長政権に移ることがほぼ確実となったことを本願寺派側が認識したのかもしれません。ある意味、本願寺派は中央政権の動きに非常に敏感な勢力であったと言えるでしょう。

 こうして途中で何度か中断こそあったものの、10年もの長きにわたる石山合戦は終わりました。最終回となる次回は、その後の本願寺派の動向と、東西分裂へと至った過程について取り上げます。

(参考文献)『一向一揆と石山合戦』神田千里著、2007年、吉川弘文館発行