では、本願寺派はどの段階で加賀の支配を確立したのか。それを理解するには、本願寺派と足利幕府の関係を見ていく必要があります。
本願寺中興の祖と呼ばれる8代目法主の蓮如(1415~1499年)は、その縁組政策により幕閣側近との人脈を築いたことで、本願寺派勢力の拡大に成功しました。続く9代目法主の実如(1458~1525年)もこの路線を踏襲し、特に応仁の乱の東軍大将を務めた細川勝元(1430~1473年)の子で「半将軍」と呼ばれるほど権勢をほしいままにした細川政元(1466~1507年)との関係を深めます。
本願寺とその宗徒は、政元の要求を呑む形で政元の政敵を妨害したり攻撃したりする行動をとっていきます。
とりわけ象徴的なのは、河内(現大阪府)の武将、畠山義英に対する攻撃(1506年)です。政元は、畠山義英を攻撃する討伐軍に本願寺宗徒を動員させようとしました。実如は政元の要請を受けて、河内の一向宗徒に召集をかけました。ところが地元の利害関係が絡んだことで、河内の宗徒並びに本願寺指導者は拒否します。そこで実如は代わりに加賀の宗徒に動員をかけ、1000人の宗徒を討伐軍に送り込みました。
筆者は、本願寺派が加賀の支配権を確立したのは、加賀の兵員を動員したこのタイミングだったと考えています。これは同時に、一向一揆衆、つまり本願寺派が戦国大名化したとも言うことができます。実際にこれ以降、本願寺派と、加賀と国境を接する越中の畠山家、越前の朝倉家、越後の長尾家との軍事抗争が活発化していきます。とくに長尾家相手に至っては、上杉謙信の祖父に当たる長尾能景を敗死に至らしめるなど北陸地方で猛威を振るい、他の戦国大名との間で領土争いにしのぎを削ることになります。
信長との抗争の始まり
時代は下って戦国時代後半、織田信長(1534~1582年)は室町幕府15代将軍・足利義昭(1537~1597年)を奉じて京都への上洛を果たします(1568年)。
このときすでに本願寺は京都・山科から大坂・石山(=石山本願寺)へと本山を移していました(1533年)。
本願寺派は、当初は信長からの軍事資金提供命令にも素直に従うなど、従順な姿勢を示していました。しかし1570年、突如として牙を剥き、織田軍への攻撃を開始します。10年にわたる「石山合戦」の幕開けです。本願寺派の挙兵は信長にとっても想定外の事態だったらしく、慌てて朝廷に働きかけ、開戦からわずか1カ月で和睦に持ち込んでいます。