扇谷上杉家の拠点だった川越城(埼玉県川越市)の本丸御殿(出所:Wikipedia)

 前回(「『関東版の応仁の乱』は約30年も戦っていた」)は「応仁の乱」の関東版こと「享徳の乱」(1455~1483年)を取り上げました。関東の支配権をめぐって、鎌倉公方(かまくらくぼう=鎌倉府の長官)であった足利成氏(あしかが・しげうじ)と、鎌倉公方を補佐する関東管領(かんとうかんれい)を代々務めてきた上杉家が争った約30年にわたる抗争でした。

 最終的にこの享徳の乱は、上杉派の内部抗争をきっかけに両派が和睦に動いたことで終結します(1483年、都鄙合体)。

 ところがまだ戦乱の空気も冷めやらぬわずか4年後の1487年、今度は上杉家の本家と分家の間で新たな抗争が起こります。今回はそんな両上杉家が激突し、下剋上の様相がより鮮明化していく「長享の乱」(1487~1505年)を紹介します。

分家の中で際立つ存在となった扇谷上杉家

 本題に入る前、まず抗争の主役となる2つの上杉家について軽く説明しておきましょう。

 上杉家はその起源をたどると、室町幕府の初代将軍である足利尊氏の従弟に当たる上杉憲顕(うえすぎ・のりあき)に始まります。鎌倉府(室町幕府が関東を統治するために設置。室町幕府の鎌倉支社に相当)が設置されて間もない頃、憲顕は鎌倉公方を補佐する執事(後の関東管領)に任命され、その後も上杉家の一族が代々この職を務めたことから上杉家は関東に土着することとなります。