北条早雲の「伊豆討ち入り」

 両上杉家が関東各地で勢力争いに明け暮れていた中、伊豆では後に関東を支配する北条家の祖こと北条早雲(1432~1519年)が進撃し、その躍進の足掛かりを築いていました。

 かつて北条早雲は素浪人から大名に成り上がった人物だと思われていました。しかし、近年の研究によると、元々は京都の足利幕府に仕える官僚だったとのことです。

 早雲は、姉(もしくは妹)が今川家当主に嫁いだ縁から、家督を巡りお家騒動に入った今川家の仲裁のために駿河(現静岡県)へ赴き、仲裁を終えると一旦は京都へと戻ります。その後、紆余曲折を経て再び駿河に戻ると、今川氏親(いまがわ・うじちか)の家臣となり、駿河国内で一城を任されるようになりました。

 そんな北条早雲に転機が訪れたのは、まさにこの長享の乱の最中でした。当時、伊豆は堀越公方家の足利茶々丸(あしかが・ちゃちゃまる、足利政知の子)が支配していました。しかし、北条早雲は室町幕府11代将軍の足利義澄(よしずみ)の正式な命令を受けて茶々丸を追放し、この地を征服するに至ります(1493年)。

 この北条早雲の伊豆討ち入りの背景については、足利義澄は茶々丸の異母弟であり、茶々丸によって実母と弟を殺された恨みがあったことと、山内上杉家勢力の多かった伊豆を抑えるため、扇谷定正が手引きしたためだとみられています。これを裏付けるように、北条早雲が伊豆を支配するや、すぐ扇谷定正は山内上杉家に対する同盟を持ち掛けています。

決戦、立河原の戦い

 北条早雲が伊豆を支配するなど周辺状況に変化はありつつも、両上杉家の抗争はその後も長く続きました。この抗争の間、扇谷定正が落馬によって死んだことで扇谷上杉家の当主を養子の上杉朝良(うえすぎ・ともよし:以下、便宜上「扇谷朝良」)が継ぎましたが、その後も山内上杉家とは一進一退の争いが続きます。