扇谷定正は表向きの暗殺理由を「謀反の疑い」としましたが、実際には、両者の個人関係、そして主を上回るほどの権威を持ち始めた太田道灌への警戒心からの暗殺と考えてよさそうです。

 この名将・太田道灌の暗殺をみて一番喜んだのは、ほかならぬ本家、山内上杉家の当主、上杉顕定(うえすぎ・あきさだ:以下、便宜上「山内顕定」と表記)でした。そして、この暗殺を契機に、本家(山内上杉家)と分家(扇谷上杉家)の緊張はますます高まっていきます。

再び関東は戦乱の坩堝に

 太田道灌の暗殺の翌年(1487年)、両上杉家による抗争「長享の乱」が勃発します。きっかけは、山内顕定が扇谷定正の家臣の領土に進撃したことでした。

 当時の古河公方、足利政氏(足利成氏の子)も、自身の勢力拡大を狙って抗争に介入することを決め、扇谷定正を支援する立場を取ります。

長享の乱の主な対立構図

 両軍は各所で激突します。扇谷上杉軍に太田道灌はいませんでしたが、戦上手だった扇谷定正は数回の戦闘で山内上杉軍に連勝し、一時は本家を飲み込まんばかりの勢力を擁するようになります。

 しかし勝ちを重ねる扇谷定正は次第に驕り始めます。勇名を轟かせていた太田道灌を暗殺したことが他の配下から疑問視されていたこともあり、抗争が長期化するにつれ離反する武将が相次ぎます。当時の家臣が、定正に対して「言動を慎み各方面との和解に努めるよう」求める文書が残っているほどなので、おそらく傲慢ぶりは相当なものだったのでしょう。

 こうした態度が祟ってか、扇谷定正を当初支援していた足利政氏も、途中で支持勢力を山内上杉家に乗り換えてしまいます。こうして扇谷上杉家は、戦闘に連勝しながら徐々に追い詰められていきます。