転機が起きたのは、長享の乱勃発から17年後の1504年です。山内顕定が扇谷上杉家の拠点であった川越城(現埼玉県川越市)を攻めていたところ、北条早雲、そしてその背後の今川家の軍勢が川越城を救援するため迫ってきました。迎え撃つのは困難とみた顕定は、川越城の包囲を解いて一時離脱します。

 救援にやって来た北条早雲らと合流した朝良は、武蔵国立河原(東京都立川市)付近で山内顕定と会戦し、山内上杉軍を打ちのめすことに成功しました(立河原の戦い)。

 しかしその後、北条家と今川家の軍勢が帰還して戦力が弱まっていた朝良の軍を、越後守護代であった長尾能景(ながお・よしかげ:上杉謙信の祖父)の援軍を得た山内顕定が急襲します。この急襲を受け朝良は降伏し、長享の乱は終結します。

 扇谷上杉家は要所の戦いでことごとく勝っていながら、最終的には敗北することとなったのは、やや皮肉な結果だと筆者は思います。

 享徳の乱、長享の乱を経て、かつて関東を支配した足利家、上杉家はともにその権威を大きく落とすこととなり、最終的には北条家が両家勢力を排除して関東を支配するに至ります。

 こうした下剋上は何も関東地方に限るわけではありません。しかし、戦国時代の関東は他の地方と比べて、その抗争の激しさ、既存勢力の衰退ぶりが群を抜いており、素直に面白いと感じたことから、浅学ながら筆者もこうして紹介するに至りました。

◎通して読もう!

(1)「応仁の乱」よりも前から鎌倉は戦国時代だった
戦国時代前夜の関東で起きていたこと(前編)
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/50787

(2)かつて湘南ビーチは合戦の舞台だった!
戦国時代前夜の関東で起きていたこと(後編)
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/50789

(3)「関東版の応仁の乱」は約30年も戦っていた
戦国時代前半の関東~激しすぎる抗争史(前編)
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/50855

(4)本家と分家がつぶし合い、上杉家の抗争「長享の乱」
戦国時代前半の関東~激しすぎる抗争史(後編)
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/50856