長い年月の間に、上杉家は関東管領を代々務める本家「山内(やまのうち)上杉家」だけでなく、いくつかに分家して別系統の一族が立っていきます。その中でも際立つ存在となったのが「扇谷(おうぎがやつ)上杉家」です。
享徳の乱が勃発した前後の頃は、扇谷上杉家は数ある分家の中でさしたる勢力を持つ存在ではありませんでした。しかし、享徳の乱を通して扇谷上杉家はいくつもの武功を上げていきます。特にその家宰(かさい=家長に代わって取り仕切る人)を務めた太田道灌(おおた・どうかん)の活躍は凄まじく、享徳の乱後期に起こった「長尾景春の乱」で上杉家勢力が窮地に追い込まれた後は、実質的に彼一人の活躍によって形勢を逆転させるに至っています。
こうした太田道灌の活躍もあって、享徳の乱が終結する頃には、扇谷上杉家は本家の山内上杉家と並び立つほどまでとなります。
しかし、このような状況を山内上杉家としては面白いはずがなく、結果的に次の抗争の遠因となったわけです。
功臣、太田道灌の突然の暗殺
享徳の乱の終結後、両上杉家の間でうっすらと緊張感が漂う中、扇谷上杉家の当主である上杉定正(うえすぎ・さだまさ:以下、便宜上「扇谷定正」と表記)は功臣である太田道灌を突如暗殺します。
扇谷上杉家の大躍進に貢献し、屋台骨のような存在であった太田道灌をなぜ暗殺したのか? 実は当時、この暗殺は「やっぱり・・・」という風に受け取られていた節があります。
というのも、扇谷定正と太田道灌の主従関係は決して良好なものではありませんでした。特に道灌は「自分の活躍が正当に評価されていない」との不満をあちこちの手紙に書き残しています。挙句には、「扇谷上杉家が躍進したのは自分のおかげ」と公言して憚らず、主君の定正の意見さえも軽んじる有様だったそうです。