徳川幕府がなぜ教如に土地を寄進したのかという背景については、かねてから家康に接近していた教如のロビー活動が実ったとか、准如が「関ヶ原の合戦」の折に西軍側についたことを徳川家が良しとしなかった、などという意見がいろいろ挙げられています。筆者としては、半分裂状態の本願寺をこの際完全に分裂させ、その勢力を削ぐという狙いがあったという説を支持しています。家康自身も三河一向一揆に苦しめられたという経験があり、本願寺勢力の恐ろしさをよく知っていたという事実が、この説を支持する大きな理由です。
2つの宗派のその後
現在の日本において信者数で最多の宗派は浄土真宗であり、その中でも本願寺派は最大の勢力を誇ります。東西に分裂したとはいえ、双方ともに宗教法人として実質的に最大規模であり、日本の社会や文化面への影響力も非常に大きいと言えるでしょう。
現在、東本願寺を頂点とする宗派は「真宗大谷派」、西本願寺を頂点とする宗派は「浄土真宗本願寺派」という宗教法人名で活動を続けています。
なお、京都市内にある仏教系の大学としてそれぞれ著名な大谷大学は東本願寺、龍谷大学は西本願寺の学寮をそれぞれ前身としており、系統が分かれたことの影響は現代においても各方面でもみられます。
本連載の(その1)でも述べたように、浄土真宗本願寺派は時の中央政権との結びつきによって勢力を拡大してきたという歴史があります。ある意味、中央政権に近い立場であったがゆえに、織田、豊臣、徳川政権のそれぞれの思惑によって分裂に至ったとも考えられます。
筆者は一時期京都市内に住んでおり、京都の玄関口である京都駅近くに佇む東西両本願寺を訪れるにつけ、京都に帰ってきたことを実感します。皆さんも以上のような歴史を経て現在の京都に2つの本願寺が存在することを知った上で訪れると、また違った感慨とともに参拝することができるのではないでしょうか。
(参考文献)『一向一揆と石山合戦』神田千里著、2007年、吉川弘文館発行