信長は奇襲をしていないは本当か?
桶狭間の戦い当日の朝、義元は三河国に近い沓掛城(くつかけじょう)を出陣した。その日のうちに、桶狭間の先にある大高城に入るつもりであったらしい。大高城は、もともと今川方の支城であったが、信長が砦を築いて包囲していたところである。
それを前夜から義元に従っていた徳川家康らが猛攻を加えた砦を陥落させ、大高城を解放していた。大高城に向かう途中、昼食休憩をしていたところを織田信長に急襲されてしまったのである。
このとき、かつては、今川軍に警戒されないよう、信長が迂回をして義元の本陣を奇襲したとされていたが、近年は、正面攻撃をしたといわれるようになっている。
両軍の軍勢の数は、正確にはわからないが、ただ、少なくとも劣勢の信長が、正面から今川軍に突撃していったとは考えにくい。古代中国の兵法書『孫子』にも、「正正の旗、堂堂の陣」を攻撃すれば、必ず負けると警告されている。
このときの今川軍は、隊列を整えて布陣していた。そのようなところを「正々堂々」と攻撃しても、勝ち目はない。織田軍が今川軍の先鋒に近づいたとき、天候が急変して大雨が降った。そして、雨がやんで晴れ間がのぞいたとき、信長は今川軍の先鋒と本陣に対し、一斉攻撃を命じたのである。そういう意味からしたら、信長の攻撃は奇襲にかわりない。
義元が本陣をおいて休息していた場所は、織田信長の一代記を記した『信長公記』によれば、「桶狭間山」という山であった。一昔の時代劇では窪地に本陣をおいた義元を、信長が高所から奇襲するといった様子で描かれていたが、義元が高所に本陣をおいていたのは確実であるため、最近は信長が義元の本陣に駆け上る様子で描かれるようになっている。
ただ、問題なのは、その「桶狭間山」がどこにあったのか、具体的な場所がわからないことである。「桶狭間山」という固有名詞は、いまの桶狭間一帯にはない。「桶狭間にある山」という意味であれば、それこそ、桶狭間には小高い山がたくさんあり、特定するのは不可能である。そうした山々によって形成された谷間を「狭間」といい、狭間の一つが桶狭間だった。