今川義元はどこで討たれたのか?
さて、「桶狭間山」の本陣を急襲されたあと、義元は馬に乗って敗走している。義元が、馬に乗ることができなかったといわれることもあるが、事実ではない。
たしかに、義元は塗輿に乗って出陣していたが、それは守護として室町幕府から許された特権を示すためのものだった。当初は、300人程度の旗本とともに敗走した義元であったが、5度にわたって織田軍の追撃を受けるなか、周囲には50人ほどしかいなくなってしまう。そして、最後は信長自身も馬から下りて戦うなどの激戦のすえ、討ち取られてしまったのである。桶狭間一帯には深田や湿地が広がっており、足を取られたところを殺される今川軍の兵も多かったという。
それではいったい、義元自身はどこで討ち死にしたのだろうか。
桶狭間の戦いから27年後の天正15年(1587)に、義元の軍師であった太原崇孚の三十三回忌が営まれているが、そのときの記録「護国禅師三十三回忌拈香拙語并序」に「五月十九日、礼部尾之田楽窪一戦而自吻矣」とある。
「礼部」は義元のことで、「田楽窪」で討たれたのだという。この「田楽窪」の場所は確定できないが、現在でも、豊明市沓掛町に「田楽ケ窪」という地名が残されている。
ここは、義元がその日の朝に出立した沓掛城に近い。織田軍が待ち受けているかもしれない大高城に向かうよりは、味方が守っている沓掛城に引き返したと考えれば、合点がいく。
義元は、「桶狭間山」から沓掛城に逃げ込もうとして、この「田楽ケ窪」で力尽きてしまったのではなかろうか。
追撃する織田軍と今川軍による大きな戦闘のあったところが、伝承として残り、「桶狭間古戦場伝説地」と「桶狭間田楽坪古戦場公園」になったものと考えたい。