織田信長像 長興寺蔵 東京大学史料編纂所模写

(乃至 政彦:歴史家)

改革者ではなかった?

 かつて織田信長は、軍事・政治の構造改革を推進する天才だったとされてきた。信長と敵対した武田信玄がその手紙で「天台座主」を称した際、これに対抗して「第六天魔王」と署名する返書を送りつけた逸話から、「魔王」と形容されることも多い。

 しかしこうした信長像は近年大きく覆されつつある。

 信長の先進性を示すものとされてきた戦術や政策が、当時普通にあるものだと見えてきたのだ。そのほか、誤伝や誇張も多い。 

 例えば天正3年(1575)に長篠設楽原合戦で信長が使ったという「鉄炮三段撃ち」戦術は、別に信長の専売特許ではなく、それまで上杉謙信や武田信玄が当たり前に使っていた。そもそも弓や弩など遠距離武器を連射する戦術自体、古代から一般化していたのである。

 有名な兵農分離についても、当時は侍に徴兵された農兵が常用されていないのだから、信長がこうした制度を廃止して専業傭兵のみで戦う軍事改革をなしたという話自体成り立たない。

  信長の人物像は転換期に入っている。 

「信長の野望」はなかった?

 織田信長の天下取りの野望についても見直しが進んでいる。よく言われるのは「天下布武」の印章である。これは従来「日本全国を武力統一する」という解釈が一般的だったが、近年は「天下とは日本ではなく、畿内である」といわれ、「布武」も「武力統一」ではなく、「幕府再興」だと解釈するのが主流になってきた。つまり信長は畿内で権力を失墜した幕府を立て直す理念を宣言するため、この印章を採用したのだと見られるようになったのだ。

 すると、信長は自分が天下取りをしたかったのではなく、足利幕府を再興し、その秩序を支え続けようとして、上洛などの軍事行動を行なったことになる。

 確かにこの頃の信長を見てみると命がけで戦っており、 幕府のため滅私奉公する理想的な忠臣ぶりを演じている。

 これらの事実から信長像は、従来の近世への扉を開いた先駆者というよりも保守的でまじめな中世人だったとする評価が高まりつつある。