伊達家の二次史料

 まず伊達家の記録『伊達貞山治家記録』[一]である。

 城が落ちることになる27日の朝、伊達軍が城攻めの布陣を整えた。これを見た小手森城の武士がひとり現れ、伊達成実の陣所に向かい、取次を願い出た。

「それがしは石川勘解由と申す者である。伊達成実殿の家士・遠藤下野と知り合いでござる故、対面を願いたい」

 すると遠藤下野が「何事ぞ」と勘解由に応じた。

「すでに大内さまは小浜城へ移られてござる。この小手森にはわれら大内さまの側近がまだ多数残ってござるが、もはや落城間近と見え申す。それなら、そのまま城をお渡しして、われらは主君のもとへ移りたいでござる」

 勘解由は伊達軍の様子を観察して、「話し合いの余地あり」と考え、このような提案を持ちかけたのだろう。だが、限りなく自分に甘い提案である。遠藤が主人に事の次第を報告すると、めぐり巡って政宗のもとまで話が伝わり、交渉が開始された。

 伊達軍は「提案を容れてもいい。しかし小浜城ではなく伊達領に移れ」と半分ほど譲歩する返答をしてみせた。このまま逃してやって、定綱のもとに移られたら、かれらは決死の思いで抗戦するに違いない。当然の代案だろう。すると勘解由は、城中の者たちと相談した後、今度は「主君のもとで一緒に自害したいから命乞いをしているのでござる」などと主張してきた。空気が読めないとはこのことだろう。これほど自分に虫のいい開城交渉は、戦国時代に例がない。

 これを聞いた政宗は「御許容ナシ」の顔色で、「自分たちの陣構えが緩いから、城中の者も自分勝手なことを言い出すのだ(厳ク攻メ給ハサル故、城中如此ノ自由ヲ申出ス)」と怒り出し、「本丸まで攻め落とせ」と下命した。上杉謙信織田信長でも同じ決断を下しただろう。だが、こうしたタイプの群雄は、奥羽ではスーパーレアだった。

 午後から総攻撃が始まった。あっという間に城が落ちた。夕暮れ前の時である。伊達軍は本丸にいた「男女800人ほどを一人も残さず監視をつけて斬殺(男女八百人許リ、一人モ残サス目付ヲ附テ斬殺)」したと言う。

 800人を斬殺──。僧侶に宛てた書状と同じ人数である。

 続いてこのやりとりに関わった伊達成実に由来する二次史料『伊達成実記』を見てみよう。ここでも、石川勘解由の話が記されており、その内容はほぼ前述の通りである。それで伊達軍が本丸を落とすと「(政宗が)撫で斬りにせよとの指示があり、男女・牛馬まで切り捨て、日暮れになって引き上げた(ナテ切ト被仰付、男女牛馬迄切捨、日暮候テ被引上候)」とある。殺害した人数については記しておらず、「牛馬迄」を殺害したという点が、ほかの史料と異なっている。ここまで政宗の苛烈さだけはどれも一致しており、その命令によって城兵およびそれ以外の者も残らず命を奪われたことになっている。

 ただ、これがもし政宗と伊達軍のついた嘘であったとしたらどうだろうか。生き残りはほぼいなかったから、死人に口無しだろう。

伊達以外の二次史料に見る小手森落城

 では最後に軍記『奥羽永慶軍記』[八]を取り上げる。これは近世の秋田藩士が書いた軍記で、伊達家とは何のゆかりもなく、政宗を立てる義理もない。明らかな事実誤認の記述も多い。こんな軍記なのだから、もし政宗が小手森城で虐殺を指示した事実があれば、昨今の歴史の読み物のように、嬉々として掲載したはずである。だが、それがないのだ。

 それに同書は、「奥羽における戦国時代を考える上でも、もう一度、史料的にも検討し直してみる必要がある」文献とされ(『戦国軍記辞典』[群雄割拠篇])、まったくの無価値な史料ではないとされる。

 ここに書かれている内容を見てみよう。石川勘解由が交渉を申し出て、決裂する流れまではほぼ同じである。ところが、小手森落城のくだりでほかの文献とまったく異なる内容が記されている。伊達軍と戦うべく、城から打って出た小野半兵衛が、深傷を負って城中に引き上げたところから転写したい。

「(半兵衛は)城の中へ引き上げると大音声で『難関はどこも突破されたぞ。男女ともに急ぎ自害するのだ。敵は乱れ入ってくる。奪われるな、斬り捨てられるな』と命令したあと、具足を脱ぎ、切腹して倒れてしまった。[中略]城の中の者たちは剛強にも陪臣の下々の者まで逃げ延びようとする者は一人もなく、戦死したり自害したり、または火中に身を投じて死ぬ者もあった(城中ニ引退キ大音上テ、諸方皆破ラレタリ、男女トモニ早自害セヨ、敵ミタレ入ソ、乱妨ニ取ルナ切捨ラルナト下知シテ、具足脱捨腹切テソ臥タリケル、[中略]剛ナルカナ城中ノ者トモ、陪臣ノ下部ニ至ルマテ、落行ントスル者一人モナシ、或ハ討死或ハ自害シテ死モアレハ、炎ノ中ニ飛入テ死モアリ、)」

 ここでは、伊達軍による虐殺が行われる前に、全員自ら自害したようにされている。しかも城将の小野半兵衛の一方的な命令のためである。軍記では彼らの覚悟を褒めているが、中には上司の主張に抗しきれず、泣く泣く自害した者もいただろう。「大音上テ」、伊達軍に略奪(乱妨)させず、武功を与えるなと「下知」させる描写から、そういう推測が可能なように筆記している点は、編者の誠実さを感じさせる。

 なお、物資や人材の略奪(乱妨)は、戦国時代の戦争史料によく見られるが、この言葉は兵士の私的な略奪というよりも、軍隊の公的な接収行為として読む方が理解が通りやすい。特に馬や牛は持ち運びに困るから、兵士ひとりひとりが私的に奪ったら、次の軍事行動に差し障りが生じる。これらは総大将が組織的に管理して、組織的に配分させると考えてよい。

 ここから政宗の撫で斬り話の裏事情が見えて来る。