(乃至 政彦:歴史家)
上杉謙信こと長尾景虎の軍事力によって大国と恐れられていた越後国。室町将軍・足利義輝は景虎の上洛に、義輝はとても喜んだ。彼らの思惑は、越後軍が長期的に在京することで、
「大国越後」の若き太守
越後国──今の新潟県である。この地は「米どころ」として現在、米の収穫量日本一を誇っている。すると中世時代は、さぞや豊かな石高を誇っただろうと思われるかもしれない。だが、意外にも中世の越後国はあまり米が獲れなかった。
それでも戦国時代の群雄たちは「大国越後」
越後国の太守とは、上杉謙信こと長尾景虎である。
景虎は19歳で兄から家督を譲り受け、越後国の太守となった。その後、反乱分子をことごとく抑えて越後国に君臨した。米沢などに現存する景虎の遺品は類のない高級品ばかりである。国宝級の刀剣類もたくさん秘蔵していた。大変な金持ち太守だったのだ。石高がなくても景虎の資財は潤沢だった。では、その財源はどこにあったのだろうか。
まず直江津や柏崎などの港湾都市、ついで国内の金山や銀山を直轄していた。しかも特産品として、青苧という繊維の素材があった。永禄2年(1559)、景虎は自ら京都へ出向いて、これを朝廷や幕府の要人たちに献上した。すると、上流階級にあるかれらは嬉々として、越後布から作られた衣類でわが身を飾った。これが景虎の狙いだったのだろう。パリコレやハーパーズバザーなどの広告媒体がない時代、トップクラスの貴人たちが自発的にモデルとなれば、その宣伝効果は抜群である。
貴人たちが着用する豪奢な衣装は、地方からの来客の目を驚かせたことだろう。こうして越後の特産品は、京都から販路を広げていく。戦国時代というが、景虎の財源はこのように戦争ではなく、平和を前提とする方向で拡張されていたのである。
ただし景虎が京都にやってきたのは、商談だけが目的ではなかった。景虎は自慢の武装行列を連れていた。武装行列は、越中・加賀・越前・近江諸国を渡ってきたにもかかわらず、一切波風立てず京都まで上ってきていた。景虎はこれを将軍たちのお目にかけて、自身の武威を示すつもりであった。幕臣たち立っての希望でもあったのだろう。
この頃、京都の将軍・足利義輝は、相次ぐ争乱でその実力を失墜させており、畿内での政治的基盤が安定していなかった。特に畿内政権である三好長慶の権勢ぶりを快く思っておらず、その関係は関東でいう古河公方と北条氏康の確執に近いものがあった。そこで地方の有力太守である景虎を側に招いて、将軍権威の健在ぶりを誇示したかったのである。