岐阜駅前にある織田信長像。「岐阜」という地名は信長が名付けたといわれる。

(乃至 政彦:歴史家)

これまで「日本を武力で統一する意思表示」と思われてきた織田信長の印判《天下布武》 。最近では「五畿内(天下)に幕府を再興する(布武)という表明」ではないかとされ、定説となりつつある。この新解釈は信長本人の評価が変わったことも影響しているだろう。今回の番外編は、この解釈では解決されない問題を挙げながら、《天下布武》について著者独自の見解を述べる。(JBpress)

《天下布武》の意味を再検証

 織田信長の印判《天下布武》の解釈が揺れている。

 これまでこの印判は「天下に武を布く」と読まれ、「日本を武力で統一する意思表示だ」と評価されてきた。

 この解釈は、古くから無理のない読み方とされ、ほとんど定説同然に受け入れられてきた。

 例えば、江戸時代の軍記『北越軍談』[巻第三]がある。ここでは若き日の上杉輝虎(謙信)が家来に向かい、「我等宥志(われらゆうし)の如きは、一世中に英天下護(ほどこ)し、越中・加賀・能登・越前の蓁薺(しんぜい/草むら)を芟(かえり)て(刈り取って)功臣に割与(わりあた)へ」と宣言する描写がある。「天下く」という文字の並びは、江戸時代にも無理のない言葉として受け入れられていたのである。

《天下布武》(織田信長印判:近代デジタルライブラリー『集古十種』[印章二])国立国会図書館

 だが、従来説だとおかしいことがある。信長はこの《天下布武》の印判を、上杉輝虎や小早川隆景など、ほかの群雄への書状にも使っているのだ。これだと受け取った大名が「俺の縄張りも武力で制圧するつもりなのか」と警戒する恐れがある。

 ならば、本当はどうなのかと多くの識者が頭を悩ませてきた。そこからひとつ有力な説が生まれた。「《天下布武》とは、信長が五畿内(天下)に幕府を再興する(布武)という表明だ」という新解釈である。これは現在、学界を中心に大きな支持を集めており、先日も「歴史秘話ヒストリア」で紹介されるほど有名になった。半ば定説の位置に落ち着きつつあると言ってよい。

《天下布武》の天下とは?

 ところでその「天下」を「五畿内」(山城・河内・和泉・摂津・大和の首都圏諸国)とする根拠はなんだろうか。

 実例を出して説明しよう。永禄9年(1566)5月9日付の上杉輝虎願文がある。これには「留守中の分国を気にすることなく、天下へ上洛せしめ(分国留守中きづかいなく天下江令上洛)」と、「分国(自分の勢力圏)」と「天下(京都)」を別の概念として使い分けている。

 ここから信長のいう「天下」もまた都を中心とする地域(「天下」)に足利幕府(「武」)を再興する(「布」く)想いを込めて、《天下布武》の言葉を選んだのだという解釈が成り立つことになったのだ。

 ちなみに信長が《天下布武》の印判を使い始めたのは、永禄10年(1567)の11月である。そして、越前にいた足利義昭から「京都を制圧して、予を将軍にしてもらいたい」と打診されたのは翌年6月である。信長が《天下布武》の四文字に魅かれ、これを印判にしようと考えた時期と、義昭の将軍就任に貢献しようと志した時期は、そこそこ近いと考えられる。

 おりしも《天下布武》の再検証が熱を帯びていた頃、歴史研究界では、信長の人物像が「時代の革命児」から「中世の保守派」へと変わりつつあり、さらに「はじめ信長は幕府再興に命がけで尽力していた」という評価が定着するようになって、そこから印判の解釈が劇的に変わったのだ。

 ここで冷静に考え直してみよう。従来説に疑問が提示されている最中に、信長の評価が変わったことから、「信長は幕府再興を考えていた」+「天下とは五畿内だ」=「だから《天下布武》は、幕府再興を意味するスローガンだったのだ」と情報をつなぎ合わせて、新解釈が生み出された。

 だが、わたしはこの解釈では解決されない初歩的な問題が、まだいくつか残っているように思えている。試しに4点ばかりその疑問を挙げさせてもらうと、①天下の意味、②布武の意味、③信長の息子たちが使っていた《一剣平天下》および《威加海内》という印判との整合性、そして④戦国大名の印判意識の問題がある。

 これらを焦点に、それぞれの疑問と、それに対する私の見解を述べていこう。