滋賀県の安土(あづち)城に残る石垣 (撮影/西股 総生、以下クレジットのない写真は同)

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

作戦基地から占領軍司令部へ

 城とは本来、戦いのための軍事施設です。でも、お殿様が住んでいて政治をする場所、というイメージを城に対して持っている人、多いですよね。なぜ、そういうイメージができたのでしょう?

 乱世がつづくうちに、各地の地方予選を勝ち上がって、広い領地を治める有力な戦国大名が出現してきます。こうなると当然、戦争の規模も大きくなり、動かす兵力も必要な物資の量も大きくなります。となれば、作戦基地として使う城は大型化します。

 彼らが戦いに勝つと、領地が広がります。そこは占領地ですから、作戦司令官が占領司令官として、そのまま軍政を敷いて治めることになります。つまり、前線の大きな作戦基地が、そのまま行政府になるのです。

写真1:横浜市にある小机(こづくえ)城の空堀。写真に写っているのは谷ではなく、全て人力で掘削された空堀で、幅は20メートルを超える。北条氏が前線基地として築いた城だが、領国が広がるにつれ、この地域を支配する政庁としての性格を強めていった。

 占領軍司令部を新しく設ける場合も、大きくて頑丈な城にしなければなりません。占領地で反乱が起きても、本国からの援軍が来るまで持ちこたえなくてはならないからです。もともと軍事基地だった城が、政庁としての役目も果たすようになります。

 こうした中で、急速に頭角をあらわしてきたのが織田信長です。1568年、信長は足利義昭を奉じて京にのぼり、室町幕府を立て直そうとします。しかし、信長の周囲には敵対する大名たちがひしめいていました。おまけに、せっかく新将軍に立てた義昭とも不仲になり、義昭は各地の大名たちに呼びかけて、信長を倒そうとします。

写真2:愛知県の清洲(きよす)城に立つ織田信長の銅像。清洲城は『麒麟が来る』にも出てくるよね。信長は、この城から出撃して桶狭間で今川義元を討ち取った。城跡は公園になっているが、残念ながら遺構は残っていない。

 四面楚歌になった信長は、配下の有力な武将たちを各方面に派遣します。何とか彼らに戦線を持ちこたえさせながら、機を見て反撃に出るしかありません。織田軍は、強力な城を築く必要に迫られました。

写真3:岡山県の備中高松(びっちゅうたかまつ)城。信長の配下だった羽柴秀吉が、水攻めをした城として有名。当時の秀吉は中国方面軍司令官のような立場にあり、この城を攻めながら信長の本隊が出陣するのを待っていた。

 ただ、このときの信長には、「武器」になるものがありました。京都とその周辺、つまり日本でいちばん経済力と技術力のある先進地域を押さえたことによって、高度な土木・建築技術を築城に応用できるようになっていたのです。